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言葉にできない/絵にも描けない - 図像の哲学: いかにイメージは意味をつくるか

『図像の哲学: いかにイメージは意味をつくるか』を読んだ。

断続的に考えている「思考の道具としてよく言葉が持ち出される、非言語的な思考もあるよね?」という疑問に直結するテーマだったので、答えは出ないにしても得るものがあるだろうと思って。

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本書の最初の主張はこうだ。
「像には、像に固有の論理がある」という主張から議論を始めたい。
ここだけ取り出してみると、自分が疑問を抱いた理由と一致している。非言語的な思考固有の出力(の一例)が図像なんだと思う。だから得るものはあった。けれど、自分が考えていた図像と本書がメインターゲットにしている図像が大きくズレていたのが辛い。ずっとギャップに悩まされながら読んでいた。

自分が思い描いていた〈図像〉は、『ヒトはなぜ絵を描くのか』で扱われていた言語以前の絵だった。一方で、本書が念頭においているのはイコン――キリスト教の宗教画だ。この隔たりは大きい。言語以前から図像はあったと考えているところに、
キリストの受肉があらゆる像の暗黙のモデルとなったためである。それは図像 (イコン) 的なものの強力な普遍化に道を開く。キリスト教はいまも昔も、世界宗教の中で唯一、図像を用いて勢力を拡大していることも見過ごしてはならない。とはいえ、キリストの像的性格といくら関わりが深いとしても、教えの始原的かつ最終的な伝達はロゴスに託される。真の意味での信徒は、けっして「イコン」の鑑賞者ではなく、神の「言葉」に耳を傾ける者なのである。
なんて言われたものだから、立脚点に相当な距離を感じてしまう。

このあと議論を展開するにあたって、著者は次の3つの論点を挙げているのだけれど、1つ目が合わないので2つ目以降が合う/合わない以前の問題になって、どうしてもひっかかってしまう。
  • 「像」と言った場合、そこでなにが考えられているのか。
  • 言語に対する批判を通して、なぜ像を理解できるようになるのか。
  • 像の論理とはどのようなものか。
2つめの「言語に対する批判」に関して言えば、「はじめに」で、
デリダの「ロゴス中心主義」を錦の御旗にして、十把一からげの議論を玩ぶ誘惑にも屈しないようにしたい。
と言っているのだけれど、先ほどの引用部のように中心から外れた九把を一からげに切り捨てるような物言いこそ、批判を向けられたという「ロゴス中心主義」ど真ん中じゃなかろうか。

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そんなことを考えていると、この本の成り立ちがかなり危うく感じられてくる。

というのも、この本は、「像には、像に固有の論理がある」という主張を掲げて、像を理解するための言語に対する批判を、言語を使って繰り広げようとしているからだ。

しかし、「像に固有の論理がある」という前提のもとでは、その論理は言語で説明できない。できたのなら、その論理は像に固有のものではない。両者で共有されるものだ。

非言語的な思考はそもそも議論に向かない。ただそれだけの話なのかもしれないけれど、正解があるものでもないだろうし、もうしばらく疑問を抱き続けていよう。

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というわけで、いざ振り返ってみると前提が大きく食い違っていて、どうにも落ち着きが悪い。各論は宗教画以外の話も多くて、おもしろかったのだけれど。

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