スキップしてメイン コンテンツに移動

言葉にできない/絵にも描けない - 図像の哲学: いかにイメージは意味をつくるか

『図像の哲学: いかにイメージは意味をつくるか』を読んだ。

断続的に考えている「思考の道具としてよく言葉が持ち出される、非言語的な思考もあるよね?」という疑問に直結するテーマだったので、答えは出ないにしても得るものがあるだろうと思って。

🎨

本書の最初の主張はこうだ。
「像には、像に固有の論理がある」という主張から議論を始めたい。
ここだけ取り出してみると、自分が疑問を抱いた理由と一致している。非言語的な思考固有の出力(の一例)が図像なんだと思う。だから得るものはあった。けれど、自分が考えていた図像と本書がメインターゲットにしている図像が大きくズレていたのが辛い。ずっとギャップに悩まされながら読んでいた。

自分が思い描いていた〈図像〉は、『ヒトはなぜ絵を描くのか』で扱われていた言語以前の絵だった。一方で、本書が念頭においているのはイコン――キリスト教の宗教画だ。この隔たりは大きい。言語以前から図像はあったと考えているところに、
キリストの受肉があらゆる像の暗黙のモデルとなったためである。それは図像 (イコン) 的なものの強力な普遍化に道を開く。キリスト教はいまも昔も、世界宗教の中で唯一、図像を用いて勢力を拡大していることも見過ごしてはならない。とはいえ、キリストの像的性格といくら関わりが深いとしても、教えの始原的かつ最終的な伝達はロゴスに託される。真の意味での信徒は、けっして「イコン」の鑑賞者ではなく、神の「言葉」に耳を傾ける者なのである。
なんて言われたものだから、立脚点に相当な距離を感じてしまう。

このあと議論を展開するにあたって、著者は次の3つの論点を挙げているのだけれど、1つ目が合わないので2つ目以降が合う/合わない以前の問題になって、どうしてもひっかかってしまう。
  • 「像」と言った場合、そこでなにが考えられているのか。
  • 言語に対する批判を通して、なぜ像を理解できるようになるのか。
  • 像の論理とはどのようなものか。
2つめの「言語に対する批判」に関して言えば、「はじめに」で、
デリダの「ロゴス中心主義」を錦の御旗にして、十把一からげの議論を玩ぶ誘惑にも屈しないようにしたい。
と言っているのだけれど、先ほどの引用部のように中心から外れた九把を一からげに切り捨てるような物言いこそ、批判を向けられたという「ロゴス中心主義」ど真ん中じゃなかろうか。

🎨

そんなことを考えていると、この本の成り立ちがかなり危うく感じられてくる。

というのも、この本は、「像には、像に固有の論理がある」という主張を掲げて、像を理解するための言語に対する批判を、言語を使って繰り広げようとしているからだ。

しかし、「像に固有の論理がある」という前提のもとでは、その論理は言語で説明できない。できたのなら、その論理は像に固有のものではない。両者で共有されるものだ。

非言語的な思考はそもそも議論に向かない。ただそれだけの話なのかもしれないけれど、正解があるものでもないだろうし、もうしばらく疑問を抱き続けていよう。

🎨

というわけで、いざ振り返ってみると前提が大きく食い違っていて、どうにも落ち着きが悪い。各論は宗教画以外の話も多くて、おもしろかったのだけれど。

このブログの人気の投稿

北へ - ゴールデンカムイ 16

『ゴールデンカムイ 15』、『〃 16』を読んだ。16巻を読み始めてから、15巻を買ったものの読んでいなかったことに気がつく。Kindle版の予約注文ではままあること。 15巻は「スチェンカ・ナ・スチェンク」、「バーニャ(ロシア式蒸し風呂)」と男臭いことこのうえなし。軽くWebで調べてみたところ、スチェンカ・ナ・スチェンク (Стенка на стенку) はロシアの祭事マースレニツァで行われる行事のようだ[1]。それなりになじみ深いものらしく、この行事をタイトルに据えたフォークメタルStenka Na StenkuのMVが見つかった。 16巻では杉元一行は巡業中のサーカスに参加することになる。杉元と鯉登の維持の張り合いが、見ていて微笑ましい。鯉登は目的を見失っているようだが、杉元もスチェンカで我を失っていたので、どっこいどっこいか。なお、サーカス/大道芸を通じた日露のつながりは、実際にもこのような形だったようだ[2]。 個々のエピソードから視線を上げて、全体の構図を眺めてみると、各勢力がすっかり入り乱れている。アシㇼパは尾形、キロランケ、白石とともにアチャの足跡を辿り、そのあとを鶴見のもとで家永の治療を受けた杉元が鯉登、月島を追っている。今更だけれど、杉元やアシㇼパは、第七師団と完全に利害が衝突していると考えていないはずだった。一方で、土方一味も入墨人皮を継続。むしろ彼らの方が第七師団との対立が深刻だろう。さらに北上するキロランケはまた別の目的で動いているようだけれど、なんで尾形も一緒なんだっけ? 『進撃の巨人』に引き続き、これもそろそろ読み返す時期か。 [1] 5つの暴力的な伝統:スラヴ戦士のようにマースレニツァを祝おう - ロシア・ビヨンド [2] ボリショイサーカスの源流は、ロシアに渡った幕末日本の大道芸人たちにあった 脈々と息づく「クールジャパン」 | ハフポスト

Memory Free - 楽園追放 2.0 楽園残響 -Goodspeed You-

『楽園追放 2.0 楽園残響 -Goodspeed You-』を読んだ。映画 『楽園追放 -Expelled from Paradise-』 の後日譚にあたる。 前日譚にあたる『楽園追放 mission.0』も読んでおいた方がいい。結末に言及されているので、こちらを先に読んでしまって後悔している。ちなみに、帯には「すべての外伝の総決算」という惹句が踊っているけれど、本作の他の外伝はこれだけ [1] 。 舞台は本編と同じでディーヴァと地球だけれど、遥か遠く外宇宙に飛び立ってしまったフロンティアセッターも〈複製体〉という形で登場する。フロンティアセッター好きなのでたまらない。もし、フロンティアセッターが登場していなかったら、本作を読まなかったんじゃないだろうか [2] 。 フロンティアセッターのだけでなくアンジェラの複製体も登場するのだけれど、物語を牽引するのはそのどちらでもない。3人の学生ユーリ、ライカ、ヒルヴァーだ。彼らの視点で描かれる、普通の (メモリ割り当てが限られている) ディーヴァ市民の不自由さは、本編をよく補完してくれている [3] 。また、この不自由さはアンジェラの上昇志向にもつながっていて、キャラクタの掘り下げにも一役買っていると思う。アンジェラについては前日譚である『mission.0』の方が詳しいだろうけれど。 この3人の学生と、フロンティアセッターとの会話を読んでいると、フロンティアセッターがフロンティアセッターしていて思わず笑みがこぼれてしまう。そうして、エンディングに辿りついたとき、その笑みが顔全体に広がるのを抑えるのに難儀した。 おめでとう、フロンティアセッター。 最後に蛇足。関連ツイートを 『楽園残響 -Goodspeed You-』読書中の自分のツイート - Togetterまとめ にまとめた。 [1] 『楽園追放 rewired サイバーパンクSF傑作選』は『楽園追放』と直接の関係はない。映画の脚本担当・虚淵玄さんが影響を受けたSF作品を集めた短編集。 [2] フロンティアセッターは登場しないと思って『mission.0』を読んでいない。 [3] 本編では、保安局高官の理不尽さを通して不自由さこそ描かれてはいたものの、日常的な不自由は描かれていなかったように思う。アンジェラも凍結される前は豊富なメ

報復前進

『完全なる報復 (原題: Law Abiding Citizen)』 を観た。 本作では、家族を押し入り強盗に殺された男クライドが、その優れた知能と技術でもって犯人に報復する。 ここまでで半分も来ていない。本番はここから。 クライドの報復はまだまだ続く。 一見不可能な状態からでも確実に報復を続けるクライドが、冷静なのか暴走しているのか分からず、 緊張感をもって観ていられた。 欲を言えば、結末にもう一捻りあると嬉しかった。 ちょっとあっさりし過ぎだと感じてしまった。