先日、Bunkamuraザ・ミュージアムでに行って『写真家ソール・ライター展』を観てきた。
会場で知った彼の言葉が、漠然としている自分の思考/志向/嗜好に当てはまっているように思えてならない(錯覚だろうけれど、幸せな錯覚だ)。
このあたりの思いは、かれこれ10年近く変わっていない。昔のエントリィ(良いものは良いのかや切れない綺麗な)から継続している。
どこ(=絶好の撮影スポット)で何(=写り映えのする被写体)を撮るか選り好みすれば、間違いのない写真が撮れるだろう(これを実現するのも簡単ではないけれど)。これはこれで、素敵だし嫌いじゃない。けれど、予定調和的だからか、ハッとさせられたりはしない。
ショックを受けるのは、自宅の周囲であったり、日常的に見かけているものだったりに、今まで気付かなかったものがあることを見せつけられたとき。
というウンチクも実はどうでもよくて、紹介記事を一目見たときから、惹かれていた。もう、どうとでもなれというか、どうしようもないというか。
どうであれ、うまく言語化できるなら、写真じゃなくてもいいよね(身も蓋もない)。
会場で知った彼の言葉が、漠然としている自分の思考/志向/嗜好に当てはまっているように思えてならない(錯覚だろうけれど、幸せな錯覚だ)。
重要なのは、どこである、何である、ではなく、どのようにそれを見るかということだ。
写真家からの贈り物は、日常で見逃されている美を時折提示することだ。
私が写真を撮るのは自宅の周囲だ。神秘的なことは馴染み部会場所で起きると思っている。なにも、世界の裏側まで行く必要はないんだ。
このあたりの思いは、かれこれ10年近く変わっていない。昔のエントリィ(良いものは良いのかや切れない綺麗な)から継続している。
どこ(=絶好の撮影スポット)で何(=写り映えのする被写体)を撮るか選り好みすれば、間違いのない写真が撮れるだろう(これを実現するのも簡単ではないけれど)。これはこれで、素敵だし嫌いじゃない。けれど、予定調和的だからか、ハッとさせられたりはしない。
ショックを受けるのは、自宅の周囲であったり、日常的に見かけているものだったりに、今まで気付かなかったものがあることを見せつけられたとき。
というウンチクも実はどうでもよくて、紹介記事を一目見たときから、惹かれていた。もう、どうとでもなれというか、どうしようもないというか。
どうであれ、うまく言語化できるなら、写真じゃなくてもいいよね(身も蓋もない)。