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終焉の終演

食の終焉『食の終焉』を読んだ。アグリカルチャーとアグリビジネスの間「食の終焉」: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるで紹介されていたのがキッカケ。

結論だけ拾うと、「持続可能な食品にお金を払おう」と言っている。本書が描き出しているのはアメリカの事情だけれど、日本でも事情は変わらなさそう。『津田大介の「メディアの現場」vol.12』で農作物流通ジャーナリストの山本謙治さんは
「今の農産物価格は、それ自体の収入で農業者が食っていける(再生産できる)価格には達していない」
と言っている。

そんなことを言うのは、現在の食料生産は持続不可能だと考えているから。その原因は、下記にあると言う。カバーする範囲がとても広いけれど、最終消費者が変わらないことには、変わらないだろうということらしい。余談だけれど、切り口がファイブフォース分析に近いのは偶然なんだろうか。
  • 安いものが売れるという消費の傾向
  • 外食産業とのシェアの奪い合い
  • 小売店との力関係
  • 食品メーカ間での価格競争
  • 食料生産のビジネス化(アグリビジネス化)
この考え方は『文明崩壊 (上)(下)』の主張とよく似ている。『文明崩壊』も、環境問題という大きな問題に、色んな切り口から切り込んで、その解決の糸口として持続不可能な企業に消費者が目を光らせる必要があると主張していた。こちらは、どこに目を向けるべきかなど、もう少し詳しい話まで書かれていたと記憶している。

ここまでの大まかな構造で言いたいことはおおよそ分かるのだけれど、さらに具体的に内容を吟味しようとするととても辛い。まずきちんと読むのが辛い。「確か」とか「明らか」とか「事実である」とか、目にしたら警戒するようにしている言い回しがずらりと並んでいる。こんな言い回しをするにあたって、大量の事例を挙げている。けれど、それらは論理的に緊密に繋がっているわけではないし、うまくデータとしてビジュアライズされているわけでもない。と言うか、グラフはおろか表にさえしてくれていない。

というわけで、問題意識は分かるし、結論も少なくともそうした方がマシになるだろうと思える。けれど、一冊の本としては、あまり信が置けなかった。事例の多さが論理構造の弱さと相まって質より量で押すための弾幕に、断定口調の文体が疑問を抱かせず不安を引き起こすための煽り文句に見える。

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