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フィウッフィー

『ツイッターノミクス』を読んだ。

最近、twitterで企業をアカウントをよく見かけるようになったのがきっかけ。
なのだけれど、本書はtwitterに関する本ではない。
よく見たら、カバーに「これはツイッターについての本ではない」とはっきり書いてあった。

本書のテーマは、ウッフィー (Whuffie) だ。
ウッフィーは『マジック・キングダムで落ちぶれて』で、ソーシャル・キャピタルの別名として使われた言葉だそうだ。
で、ソーシャル・キャピタルが何かというと、本書の説明は次の通り。
ソーシャル・ネットワークで結ばれた人同士の間に時間をかけて育まれる信頼。あるいは尊敬。あるいは評価。
つまり、本書が描いているのは、信頼とか尊敬とか評価がどんな価値を持つか、だ。

実際、本書が扱っているのはtwitterのような新しいWebサービスやFacebookのようなSNSに限らない。
Moleskineのような古くからあるプロダクトもあれば、F2F (face-to-face) のようなアナログな手段にまで言及される。

本書を読んでいてふと思ったのは、ウッフィーはずっと前から重要だった、ということ。
ウッフィーを考案した『マジック・キングダムで落ちぶれて』は2003年に発行されたSF小説だし、ドラッカーが『マネジメント』(感想)で言う「真摯さ」とか、ジャック・ウェルチが『ウィニング 勝利の経営』(感想)でいう「率直さ」に通じるものがあると感じる。

それが、このように脚光を浴びたのは、大きく二つ理由があると思う。

一つは、まがりなりとも数値化されて誰にでも理解できる形になったこと。
twitterならfolloweeの数であったり、SNSの一つであるmixiならマイミクの数であったり、もう少し前なら、個人サイトのカウンターもそうだと思う。
もちろん、数値が表しているのは一側面に過ぎないし、数値化されるがためにとにかくそれを増やせばいいというむしろウッフィーを減らす行動を取ってしまうという弊害もある。
でも、とにかく誰の目にも見える形になった。

もう一つは、それを生業とできる可能性や、売り上げに繋げられる可能性が開けたこと。
ウッフィーのおかげで仕事の依頼が来たり、アフィリエイトやバイラル(口コミ)・マーケティングで商品が売れたりするようになった。
それで有名人や企業がこぞって参加するようになったんだと思う。

この流れは、twitterの1ユーザとしては、少し気掛かり。
ブログがメッセージのないアフィリエイトで溢れてロクなレビューが見つからないようになったり、mixiで足跡を辿ってみたら情報商材の売り込みばかりになったりしつつあるるように、SPAMで溢れないかな溢れて欲しくないな、と思う。

ブログ検索の仕方や、mixiの使い方が悪いという面はあるだろうけれど、広告に特化したtwitterアカウントもちらほら見かけるので、げんなりする。
ブロックすれば良いだけなのかもしれないけれど、周りがそんなんばかりのコミュニケーションツールを使いたいとはあまり思わない。

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