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ゴールなのかマイルストーンなのか

『ひきこもりの〈ゴール〉』を読んだ。

『〈リア充〉幻想』(感想)でニートが扱われていたので、関連書籍も読んでみようと思い手に取った。

ちなみに、ニートとひきこもりは包含関係にあるそうだ。『ひきこもりの〈ゴール〉』によると、ニートのうち社会関係の構築に困難があるグループが、ひきこもりだそうだ。

上記の違いはあるものの、両書の主張は通底している。

『ひきこもりの〈ゴール〉』では、〈ゴール〉としての〈回復〉の存在そのものを疑う必要があると言っている。
〈回復〉の内容を問い直すと同時に、”どこかに〈回復〉と呼べる地点がある”という認識枠組みそのものを解体する必要がある。
『〈リア充〉幻想』では、<リア充>をはじめ〈真の○○〉は幻想だと言う。
「真の○○」の裏には、「自分以外のほぼすべての人間からなる世界」という幻想がある。そんなものはないに。
”〈回復〉と呼べる地点”を「自分以外のほぼすべての人間からなる世界」に設定してしまうと、〈回復〉を目指す行為がない場所に行こうとする空しいものになってしまう。

だから、〈回復〉の内容を問い直す必要があるのだろう。
結論はきっと個々人でバラバラになる。
なって当然だ、と、自分は他人と違って良いし、他人もそれぞれ他人どうし違っているんだ、とそういう枠組みで問い直すのだろうな、と思う。
どうすれば納得いく形で生きていけるのかを考え抜く作業を伴わない就労支援は、当事者にとって有意義なものとはなりえない。
『ひきこもりの〈ゴール〉』
「幸せライン」との関連で一つ紹介しておきたいのは、アメリカのフェミニズムの法哲学者のドゥルシラ・コーネルっていう人の、「イマジナリーな領域への権利」という考え方です。分かりやすく言うと、人間は「自分がどういう存在になりたいのか」という明確なイメージがないと、「こうなろう!」という強い意志が生まれて来ず、安定したアイデンティティを形成できないので、それをサポートしてもらう権利が必要ではないか、という考え方です。
『〈リア充〉幻想』

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