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10月, 2010の投稿を表示しています

恋しさとせつなさと心強さとゾンビ

『高慢と偏見とゾンビ』 を読んだ。 訳者あとがきによると、本書は「いわゆるマッシュアップ小説」だそうだ。 どこが「いわゆる」なのか正直よく分からないけれど、「マッシュアップ小説」という形容は、その通りだと思う。 マッシュアップと言えば、ヒップホップの文脈では、別々の曲のボーカルとトラックを組み合わせて、あたらしい曲を作る手法のこと。DJ Danger MouseのThe Grey Albumを思い出す。ちなみに組み合わせたのは、Beatlesの "The Beatles (通称White Album)" とJay-Zの "Black Album" 。 プログラミングの分野では、別々のWebサービスからAPIを呼び出して、一つのWebサービスを作り出す手法のことを指す。今では当たり前にあちこちからAPIを呼び出しているから、ことさら強調しなくなった気がする。このブログでもtwitterのAPIを呼び出して、右下に最近のtweetを表示させている。 本書では、 『高慢と偏見』 という有名(らしい)作品に、何を思ったかゾンビパウダーをまぶしてしまった。 その結果、なんのバイオレンスもなさそうな18世紀末のイギリスの片田舎を舞台とした恋愛小説が、少林拳の使い手である主人公イライザがでカタナでばっさばっさとゾンビを斬り倒すバトル・ヒロインものに激変してしまった。 これも訳者あとがきの情報なのだけれど、「過去の名作の文章を八割以上そのまま」残しているらしい。 あまりにも衝撃だったので、二匹目、三匹目のどじょうが出てこないか心配になる。 『罪と罰とゾンビ』とか『老人と海とゾンビ』とか『ロミオとジュリエットとゾンビ』とか『バカとテストと召喚獣とゾンビ』とか『これはゾンビですか?とゾンビ』とか。 追伸 ググってみたら、同じ事を考えている人が見つかったのはともかく、既にほぼそのままのタイトルのインディーズ映画があったのには驚いた。

全然禅2

『禅学入門』 を読んだ。 ニコニコ動画の 般若心経アレンジリンク を巡っていたら、 『禅』 ( 感想 )が面白かったのを思い出したので、同じ著書の本を読んでみた。 少なくとも禅に関しては、あんまり本を読まない方がいいのかな、と思った。と言うのも、本書によれば、 月を指す指は、いつ迄も指であって、それが決して月そのものに変わるものでないことを記憶しなければならない。 本はあくまで指でしかない。 では月は何か? それは言葉では汲めないものだと言う。 神や、仏陀や、霊魂や、無限や、一や、その他こうした言葉には何ら真実の価値はない。これらは畢竟ただの言葉であり、観念であって、こうしたものは禅の真理に達するには何の役にも立たず、却ってしばしば誤謬曲解に陥るものである。 この辺りの主張は、 『〈リア充〉幻想』 ( 感想 )に通じるものがあるようにも思う。 それはさておき。 色々と思うところはあるけれど、この一文だけでも十分な一撃。 吾々は活きることに何の弁明があろうか。

読むことを学ぶことを読む - プルーストとイカ

『プルーストとイカ』 を読んだ。 本書を読んで、字を読めることは不自然なことだと理解できた。言われてみれば、それはそうだ。学習しないと読めるようにならない。こう本やらウェブやら読み耽っているから、そのことをすっかり忘れていた。 本書のPart 3を読んでいて、小説家の森博嗣氏のことを思い出した。Part 3はディスレクシア(読字障害)を扱っているけれど、森博嗣氏も 『小説家という職業』 ( 感想 )でこう書いている。 もともと僕は文章を読むことが大の苦手だった。小学生のときは特にこれが酷くて、今思うと、ほとんど読字障害だった。 本書によると、読字障害を引き起こす原因の一つが脳の編成のされ方らしい。ディスレクシアはサヴァンと共通するところがあるのかな? と思う。サヴァンも原因の一つが脳にあると言われているし、どちらも多くの人が出来るようには出来ないことがある代わりに、ほとんどの人にはできないことができたりする。 自分に出来ることをするしかないわけだけれど、出来ることで生計を立てられないと、生きづらいよなぁと思う。一方で、生計を立てるために出来ないと思っていることをやろうとしているうちに、出来るようになることもある。読字に限らず、学習するってどういうことなんだろうなぁとも思う。

フィウッフィー

『ツイッターノミクス』 を読んだ。 最近、twitterで企業をアカウントをよく見かけるようになったのがきっかけ。 なのだけれど、本書はtwitterに関する本ではない。 よく見たら、カバーに「これはツイッターについての本ではない」とはっきり書いてあった。 本書のテーマは、ウッフィー (Whuffie) だ。 ウッフィーは 『マジック・キングダムで落ちぶれて』 で、ソーシャル・キャピタルの別名として使われた言葉だそうだ。 で、ソーシャル・キャピタルが何かというと、本書の説明は次の通り。 ソーシャル・ネットワークで結ばれた人同士の間に時間をかけて育まれる信頼。あるいは尊敬。あるいは評価。 つまり、本書が描いているのは、信頼とか尊敬とか評価がどんな価値を持つか、だ。 実際、本書が扱っているのはtwitterのような新しいWebサービスやFacebookのようなSNSに限らない。 Moleskineのような古くからあるプロダクトもあれば、F2F (face-to-face) のようなアナログな手段にまで言及される。 本書を読んでいてふと思ったのは、ウッフィーはずっと前から重要だった、ということ。 ウッフィーを考案した『マジック・キングダムで落ちぶれて』は2003年に発行されたSF小説だし、ドラッカーが 『マネジメント』 ( 感想 )で言う「真摯さ」とか、ジャック・ウェルチが 『ウィニング 勝利の経営』 ( 感想 )でいう「率直さ」に通じるものがあると感じる。 それが、このように脚光を浴びたのは、大きく二つ理由があると思う。 一つは、まがりなりとも数値化されて誰にでも理解できる形になったこと。 twitterならfolloweeの数であったり、SNSの一つであるmixiならマイミクの数であったり、もう少し前なら、個人サイトのカウンターもそうだと思う。 もちろん、数値が表しているのは一側面に過ぎないし、数値化されるがためにとにかくそれを増やせばいいというむしろウッフィーを減らす行動を取ってしまうという弊害もある。 でも、とにかく誰の目にも見える形になった。 もう一つは、それを生業とできる可能性や、売り上げに繋げられる可能性が開けたこと。 ウッフィーのおかげで仕事の依頼が来たり、アフィリエイトやバイラル(口コミ)・マーケティングで

ウィンウィンウィン

『ウィニング 勝利の経営』 を読んだ。 タイトルに「経営」と入っているけれど、本書は経営者向けの本ではない。 経営者向けの本に、「昇進する――残念でした。近道はありません」や「難しい点――あの、いまいましい上司め」なんて章はない。 誰向けの本かは、「はじめに」にはっきりと書いてある。 この本は現場の第一線で働く人々のためのものだ。 つまり、経営者だけじゃなく、管理者も平社員も入っている。 テーマは、タイトル通り「勝ちとること」だ。 待っていたって、誰かがくれる訳じゃない。 自分でとりにいかないと、いつまで経っても望むものは手に入らない。 ところで、「勝つこと」は「負けないこと」ではない。 「負けない」には、「引き分ける」や「勝負しない」が含まれる。 例えば、小学校の運動会でかけっこで手をつないでゴールさせたり、護送船団方式で全ての銀行が倒産しないようにしたりすると、誰も負けないし、誰も勝たない。 運動会であって競技会じゃない。競技会じゃないけれど協議会みたい。 勝負あるいは競技でも「参加することに意義がある」とか、「負けて得るものがあった」とか言うけれど、「参加した意義」や「負けて得たもの」なんかより、「勝って得たもの」の方が大きい。 勝利することは最高だと思う。単に「よい」ことではない。「最高」なんだ。

Classical Girlな暮らしがある

This work by SO_C is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported License . たまに帽子が描きたくなる。 理由は特にない。少なくとも意識していないし、探すつもりもない。 だいたいのところ、意識できる理由なんて必要条件であって十分条件ではない。 分かりやすい説明がついていると安心する人のためのリップサービスのようなものだ。 実際、本人が意識していない理由を後付けで解説することが、サービス業として成り立っている。 理由があるからといって描かなければならないことはないし、理由がないからといって描いていけないこともない。 描いてしまった絵は、理由とか動機とかそんなものがあったとして、なくなった後もずっと残っている。

仕草という表現

『ウォーリー』 を観た。 こんなに台詞が少ない映画は珍しい。 間違えて字幕なしに設定したか? と疑った。 それなのに、ウォーリーとイヴを始めとしたロボットたちの気持ちが伝わってくる。 仕草によるものなのだろうな、と思う。 映像・音楽・効果音だけで、こんなに伝わるのが新鮮だった。 動きを観ているだけで心地よい。 これだけ映像が作り込まれていると、Blu-Rayでも観たくなってくる。 DVDにしたのは選択ミスだったかも。

終わらない

『アーサーと魔王マルタザールの逆襲』 を観た。 本作は 『アーサーとミニモイの不思議な国』 の続き。 『Matrix Reloaded』や『Red Cliff Part I』と同じで、中途半端なところで終わる。 そうと知らずに観ていたので、あの終わり方には裏切られたと思った。 映画は上映時間の中で完結すると期待しているからこそ、その世界に入り込める。 特典映像で、監督本人が次のように言っているけれど、事前告知すると動員数が減るんじゃないかと懸案して、わざとやっていないんじゃないだろうか、と勘ぐってしまう。誰が止めているのは分からないけれど。 「がっかりした人が多いのは知っている」 「事前告知がうまくいかなかった」 確か、『Red Cliff Part I』は公開前のCMでは、『Part I』と付いていなかった気がする。 完結編も観たら感想は変わるだろうけれど、作品の良し悪しとは別のところで本作の印象が悪くなってしまっているのが残念。

ゴールなのかマイルストーンなのか

『ひきこもりの〈ゴール〉』 を読んだ。 『〈リア充〉幻想』 ( 感想 )でニートが扱われていたので、関連書籍も読んでみようと思い手に取った。 ちなみに、ニートとひきこもりは包含関係にあるそうだ。『ひきこもりの〈ゴール〉』によると、ニートのうち社会関係の構築に困難があるグループが、ひきこもりだそうだ。 上記の違いはあるものの、両書の主張は通底している。 『ひきこもりの〈ゴール〉』では、〈ゴール〉としての〈回復〉の存在そのものを疑う必要があると言っている。 〈回復〉の内容を問い直すと同時に、”どこかに〈回復〉と呼べる地点がある”という認識枠組みそのものを解体する必要がある。 『〈リア充〉幻想』では、 をはじめ〈真の○○〉は幻想だと言う。 「真の○○」の裏には、「自分以外のほぼすべての人間からなる世界」という幻想がある。そんなものはないに。 ”〈回復〉と呼べる地点”を「自分以外のほぼすべての人間からなる世界」に設定してしまうと、〈回復〉を目指す行為がない場所に行こうとする空しいものになってしまう。 だから、〈回復〉の内容を問い直す必要があるのだろう。 結論はきっと個々人でバラバラになる。 なって当然だ、と、自分は他人と違って良いし、他人もそれぞれ他人どうし違っているんだ、とそういう枠組みで問い直すのだろうな、と思う。 どうすれば納得いく形で生きていけるのかを考え抜く作業を伴わない就労支援は、当事者にとって有意義なものとはなりえない。 『ひきこもりの〈ゴール〉』 「幸せライン」との関連で一つ紹介しておきたいのは、アメリカのフェミニズムの法哲学者のドゥルシラ・コーネルっていう人の、「イマジナリーな領域への権利」という考え方です。分かりやすく言うと、人間は「自分がどういう存在になりたいのか」という明確なイメージがないと、「こうなろう!」という強い意志が生まれて来ず、安定したアイデンティティを形成できないので、それをサポートしてもらう権利が必要ではないか、という考え方です。 『〈リア充〉幻想』

王子の王道

『創造の狂気 ウォルト・ディズニー』 ( 感想 )を読んで、ディズニー作品を観てみようと思い立って、 『プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂』 を観た。 王道を行くが故に、安心して観ていられるけれど、安心しきってしまうのが、皮肉だと思った。 王道は実写よりアニメの方を好むのも、影響していると思う。 現実に王道を行くことなんてないと思っているから、明確な虚構であるアニメの方がかえって割り切って楽しめる。 実写だと、中途半端に現実と比較して、距離をおいてしまうみたい。 というわけで、次は映画館での鑑賞を逃していた 『ウォーリー』 を観るつもり。

幻想の草原

『〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み』 を読んだ。 「孤独」でもええやん、と再確認した。 少なくとも、「孤独」な時間は必要だと思っている。 『プレゼンテーション Zen』 ( 感想 )からの孫引きだけれど、精神分析学者・臨床心理学者エスター・ブーフホルツ博士も、 一人きりの時間を持つことは人間の基本的な欲求だと一般に考えられており、それを否定するのは心と体の健康にとってよいことではない。 と言っている。 でも、コミュニケーションも人間の基本的な欲求なんだろうな、とも思う。 だから、ある時はリア充であるときは非リア充で、あるときはコミュであるときは非コミュなのが、みんなだと思う。 どちらにどれだけ振れているか、は人によって違うだろうけれど。 それを、100%リア充ないから、とちょっとした欠点に見えないこともないような部分をこれ見よがしにあげつらって自分はダメだ、なんて思い込むから、ますます思い詰めることになるんじゃないか、と想像する。 見えているものしか見えないし、聞こえることしか聞こえないし、言えることしか言えないし、知っていることしか知らないし、出来ることしか出来ないけれど、そこから先を想像することが出来れば、それだけで視界は意外なほど広がるんじゃないだろうか? などと思う。 思うだけ。

ズバリ守破離

「ここ1ヶ月ほど コーネル大学式ノート を使っていたんだけど」 「なんですか、そのノート?」 「あ、簡単に説明すると、1ページが3つのエリアに区切られているノートのこと。3つのエリアに、メモ、確認すること、まとめを分けて書きましょう、という使い方が提案されている」 「何となく分かりました。で、そのノートがどうしたんですか?」 「合わないということが分かった」 「登場させた途端、こき下ろしますね」 「発想はその通りだと思うんよ。ただ、1枚の紙の上でそれをやるのが、今の自分には合わない」 「ちなみに、どう合わないですか?」 「まず、メモに使えるスペースが狭くなる。それから、確認することはできるだけその場で済ませたい。最後に、まとめは後でメモを元に電子ファイルで作っているから、ノートのまとめエリアは常に空白」 「3つのエリア全部に不満があるじゃないですか。」 「バランスが悪いのかな? 1つ合わなければ、残りも合わなるんじゃ」 「それはあるかもしれませんね」 「こういうノウハウは形だけ真似してもしっくりこないことが多い。自分が自然に実行できる形に合わせていった方が良い気がする。あーでも、そういう形に合わせるためにはまず型通りやらないと良いところ悪いところが見えない気も」 「守破離ですね」 「ズバリだね!!」 「ツッコミませんよ」

BGMはMosh Pit On

『創造の狂気 ウォルト・ディズニー』 を読んだ。 本書は、ウォルト・ディズニーの伝記だ。 フォーカスを当てているのは、あくまで個人であり企業ではない。 厚さ4cmとかさばるので、携帯して読むにはつらい。 これだけ浮き沈みが激しいと、間違っても薄っぺらくはならないだろうけれど、もう少し削れなかったか、と思う。 ところで、伝記から受けるウォルトのイメージは、自分がディズニーに対して抱いているイメージとは随分違う。 「狂気」は言い過ぎだと思うけれど、ディズニーが発している「安心」、「健全」、「無邪気」というイメージからは程遠い。 怒鳴り散らし、他人を遠ざけ、恐れられている時期もある。 そういう意味では、本書は、作者と作品を同一視する人の、ディズニーに対する幻想を壊しかねない。 自分の場合、ディズニーに特段思い入れがなかったけれど、本書でかえって興味が沸いてきた。 いずれにしても、見方を変え得る面白い本だと思う。 やっぱり少しばかり厚いけれど。

Random Promotion

「今年もイグ・ノーベル賞が発表されたね」 「されましたね」 「そん中で、"Organizations Would Become More Efficient If They Promoted People At Random"って論文が経営学賞を取ってたんよ。適当に訳すと『組織は構成員をランダムに昇進されるとより効率的になる』ってところか?」 「双司君の英語力を考えると、若干不安がありますけれど、そんなところじゃないでしょうか」 「明日、突然昇進したりしないかなー」 「はいはい、したらいいですね」 「冗談はさておき、示唆的だなぁ、と思う。そもそもこんなことを考えた背景には、 ピーターの法則 ってのがあるらしい。それから、半年くらい前に読んだ、 『理解の秘密』 ( 感想 )にも、こんな記述がある」 報酬は才能を無駄にせず生かす方向で、与えられるべきだ。従業員の努力に対しては、俸給、従業員の能力に対する信頼、仕事の決定権の付与などで報いるべきであって、必ずしもいつも出世の階段を押し上げる必要はない。部下が上司より給料が高くてはいけないといういわれはない。 「最後の一文はかなりラディカルに聞こえますけれど」 「でも、今、上司の方が給料が高い根拠を知らないな。ところで、 『「ほめる」技術』 ( 感想 )を読んだときも、上の文を引用していたなぁ。こっちは、専門職の評価に関する文脈だけど」 「評価軸を定めると、意図しないインセンティブを与える可能性もありますからね」 「間違ったノルマとかねー」

名も音ドコ

This work by SO_C is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported License . 「もう子供の頃には戻れない」という主旨の嘆きを耳にすると、「本当にそうだろうか?」と思う。 「大人になれ」という同調圧力が蔓延しているので、難しいだろうとは思うけれど、きっとやってやれないことはない、と思う。 どっちにもなれた方が楽しくない?

笑顔のエゴ

This work by SO_C is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported License . 久し振りの落描。 もう少し不機嫌そうな感じにしても良かったかな。 そういう感じを出すには、顔が丸くなり過ぎたかもしれない。 よく言われるように、人の目には笑顔が一番魅力的に映る。 だから、それを知った人は笑顔でいようとするだろう。 けれど、そんな理由で作る笑顔には、無理があると思う。 ふとした瞬間に垣間見える、その他の表情の方が面白い。 不機嫌な表情に居合わせると、その人が許せないけれど堪えているものが見えてくる。

As I Am

『20歳のときに知っておきたかったこと』 を読んだ。 これを読んで、「そうだなぁ、確かに20歳のときに知っておきたかったかなぁ」と思ってしまったら、メッセージを受け取り損なっていると思う。 ここに書かれているのは、著者は20歳のときは知らなかったことだ。 著者が20歳までに知っていて、役に立ったことではない。 書かれているのは、その後に著者が学んできたことだ。 だから、これらを20歳までに知っていれば何かがどうなるものでもないだろうし、30歳で知ったって何かをどうすることができると思う。 もっと言えば、知らなくたって何かをどうにかできるだろう。 目標を妨げる要因リストには、自分の名前だけを書くべきだ、とスタンフォード大学の機械工学教授バーニー・ロスは学生に伝えるらしい。 自分次第だよな、と改めて思う。 人の力が必要なら、その人にどう力を貸して貰うか、も含めて。

無罪/有罪

友人に勧められて、 『裁判員の教科書』 を読んだ。 タイトルから裁判員制度に関する本だと思ったけれど、読んでみたらそうではなかった。 裁判の仕組み全体を取り扱っている。 もう少し説明的に言うなら、「裁判員が読むための裁判(刑事訴訟)に関する教科書」だと思う。 裁判とは何か? を分かりやすく説明している。 本書のおかげで、自分の中でモヤモヤしていた情状酌量や遺族感情の位置づけがクリアになった。 自分なりにまとめてみる。 まず前提として、次の二つは分けて考えなければならない。 被告人が有罪かどうか 有罪だった場合、刑罰の重さはどれくらいか 2を考える必要があるのは、1で有罪だとなった場合だけだ。 そして、情状酌量や遺族感情は、1では考慮されない(するべきではない)。 それはそうだ。 犯罪を犯していないのに、刑罰の重さを考える必要はない。 有罪となったとき、初めてどれくらいの刑罰が適当か考える必要がある。そのときに初めて情状酌量や遺族感情が考慮される。 1で最重要視されるのは、物証だ。 証拠もないのに犯人にされてはたまらないし、してはいけない(冤罪だ)。 自分がモヤモヤしていたのは、見聞きする裁判に関する情報が、情状酌量や遺族感情に関するばかりだからだと思う。 特に、情状酌量に関する情報(被告人の生い立ちなど)は、被告人が有罪である前提で組み立てて提供されるから質が悪い。 この辺りの問題についても本書は掘り下げていて、色々と考えてしまった。 しかし、色々と問題も挙げたその上で、本書のメッセージは「よく機能させるには?」と前向きだ。 確かに、全く問題のない制度なんて恐らくないのだから、この考え方は自分も保ちたい。