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危なげない数字

『数字に弱いあなたの驚くほど危険な生活』を読んだ。

不安を煽るタイトルは、本書の趣旨に反している。
本書は、不要な不安を抱かせるべきではないと言っている。

特に問題にしているのは、不要な(しかも間違った)不安を与える数字だ。
例えば、何かの病気の検査にひっかかったときに本当にその病気である確率 (真陽性率) 。
この確率を、患者はもちろん医者さえも、本当にその病気の人がその検査にひっかかる確率(感度)と取り違えていることが多い。

前者は後者に比べて何十倍も低い。

この誤りは、数字を確率ではなく自然頻度(何人中何人が云々)で表現することで、かなり軽減される。
どのくらい軽減されるかは、本書を読んでみて欲しい。
調査結果が自然頻度で表現されている。

それに、少し考えてみて欲しい。
自分が数字オンチを克服できると、数字が本当は難しくないと、思わせてくれる。
そして、きっと実際に克服できる。
少なくとも、自分はできそう。

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『ゴールデンカムイ 15』、『〃 16』を読んだ。16巻を読み始めてから、15巻を買ったものの読んでいなかったことに気がつく。Kindle版の予約注文ではままあること。 15巻は「スチェンカ・ナ・スチェンク」、「バーニャ(ロシア式蒸し風呂)」と男臭いことこのうえなし。軽くWebで調べてみたところ、スチェンカ・ナ・スチェンク (Стенка на стенку) はロシアの祭事マースレニツァで行われる行事のようだ[1]。それなりになじみ深いものらしく、この行事をタイトルに据えたフォークメタルStenka Na StenkuのMVが見つかった。 16巻では杉元一行は巡業中のサーカスに参加することになる。杉元と鯉登の維持の張り合いが、見ていて微笑ましい。鯉登は目的を見失っているようだが、杉元もスチェンカで我を失っていたので、どっこいどっこいか。なお、サーカス/大道芸を通じた日露のつながりは、実際にもこのような形だったようだ[2]。 個々のエピソードから視線を上げて、全体の構図を眺めてみると、各勢力がすっかり入り乱れている。アシㇼパは尾形、キロランケ、白石とともにアチャの足跡を辿り、そのあとを鶴見のもとで家永の治療を受けた杉元が鯉登、月島を追っている。今更だけれど、杉元やアシㇼパは、第七師団と完全に利害が衝突していると考えていないはずだった。一方で、土方一味も入墨人皮を継続。むしろ彼らの方が第七師団との対立が深刻だろう。さらに北上するキロランケはまた別の目的で動いているようだけれど、なんで尾形も一緒なんだっけ? 『進撃の巨人』に引き続き、これもそろそろ読み返す時期か。 [1] 5つの暴力的な伝統:スラヴ戦士のようにマースレニツァを祝おう - ロシア・ビヨンド [2] ボリショイサーカスの源流は、ロシアに渡った幕末日本の大道芸人たちにあった 脈々と息づく「クールジャパン」 | ハフポスト

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