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名前は要らない

『なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学』を読んだ。

本書は記憶にまつわる諸々を集めている。
学説から一編の詩にいたるまで、収集先は多岐に渡っている。
ともすれば散漫さも感じるけれど、それだけ記憶については分からないことが多いということだろう。

その中で自分の記憶に残っているのは、「記憶」と「抽象化」にはトレードオフの関係があるという仮説だ。
人間の記憶は、個別の具体的な事象をそのまま記憶・想起するのは苦手だ。それを補うように、それらをグループ化(一種の抽象化)してそこから個別の記憶を連想する。
『考える技術・書く技術』はじめ、複数の書籍で相手に理解してもらうためのTIPSとして紹介されている。

面白いのは、抽象化が進めば進むほど、個別の記憶を直接想起できなくなる点だ。
抽象的な記憶が、個別の記憶へのアクセスをブロックしてしまう。

この部分を読んで、自分はキルドレ(森博嗣の小説『スカイ・クロラ』シリーズの登場人物たち)を思い出した。
次の引用が端的に示すように、彼らは個別の事象を記憶しない。
固有名詞を僕は覚えない
観察が直接抽象化されるのだろうな、と想像する。

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