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探偵はいない

京極堂のいない百鬼夜行シリーズとでも言うのだろうか。

映画『ローズ・イン・タイドランド』の登場人物は、例外なく狂っている。
京極堂――狂気を相対化する視点を持つ人物――がどこにもない。

そのため、狂気によって掻き立てられた不安は、エンディングを迎えても解消されない。
言い換えれば、この映画は物を憑けるだけ憑けて落とさない。
娯楽性の観点から評価すれば、酷い映画である。

では、見所がないかと言うと、そうではない。
主人公ジェライザを演じる子役の存在感が、尋常ではなかった。
無邪気で優しくて狂っていて残酷で妖しくて、それでいて危なっかしさも残っている。
この魅力が失われるくらいなら、憑いたままでいい。落として欲しくない。
そう思えるほど圧倒的だった。

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