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2月, 2019の投稿を表示しています

O'clock rock - ヴィジランテ 6

『ヴィジランテ 6』を読んだ。 ジャンプ+の連載 も追っているけれど、続けて読んでようやく気がつくことがあるので、また違った気分で読める。それに、裏話も楽しみ。 コーイチの必殺技が 敵 ( ヴィラン ) を怒らせる程度というのが、 自警団 ( ヴィジランテ ) らしくてよい。他人に向けてさえいなくても公道で個性を使っている時点で厳密にはアウトだけれど。 それから師匠。家族のことがあるから腰を落ち着けるのかと思ったら、そんなところにまで出張って! まだ首を突っ込む理由って何だろう? と思っていたら、なるほどそういうことか。1巻で大いに笑ったアレがここで意味を持ってきた。スピンオフだけれどぐいぐい来る。 本編ともども続きが楽しみでならない。

モノマスイッチ - 僕のヒーローアカデミア 21, 22

『僕のヒーローアカデミア 21』、『〃 22』を読んだ。21巻で始まったA組B組対抗戦が、まだまだ続くよ。22巻でも終わらないよ。 新登場のB組生徒が多くて顔と名前と個性が覚えきれないよ! というわけで、22巻を読んでいる途中で21巻の「No.194 寒空!雄英高校!」に立ち返った。 今更ながらデクと物間の個性の共通点に気がつく。デクは無個性だけれど「オール・フォー・ワン」の力を受け継いだ。物間は個性が「コピー」だから効力をもって発揮される力は自分のものではない。 物間はデクの個性の正体を知らないはずだから、デク個人に対するコンプレックスはなくて22巻で心操に語った理由でA組に突っかかっているのだろうけれど。 そういうことを考えていると彼の見方が随分と変わってきた。最初は鬱陶しいだけかと思っていた、ごめん。

うらやま - 裏世界ピクニック3 ヤマノケハイ

『裏世界ピクニック3 ヤマノケハイ』を読んだ。 裏世界の存在を前にした空魚の、異質なものへの恐怖感が少し薄れてきて寂しい。ホラー要素よりアクション要素が目立つ。物語が進むうえでの必然だと頭では了解しているものの、心情的にはなかなか。 とはいえ、同時に空魚の思った以上のタフさが明らかになった巻でもあった。だんだんと冴月に接近しつつあるから、クライマックスへの期待は高まる。 これまで短篇を1篇ずつ読んできた本シリーズだけれど、ここからは文庫にまとまったタイミングで読むことにした。文庫版書き下ろしの心配をしなくてよくなるので。

どうしてそんなに - 六人の赤ずきんは今夜食べられる

『六人の赤ずきんは今夜食べられる』を読んだ。人狼ゲームを連想したけれど、童話『赤ずきん』をモチーフにしたダークファンタジーだった。 童話ではおばあさんのフリをしていたオオカミが、この物語では6人の赤ずきんに紛れ込んでいる。 そのしつこさ。執念深さ。執拗さ。姿を表して謎が明らかになると、より恐ろしくなるというオマケ付き! しっぽの先まであんこギッシリの鯛焼きのように最後まで楽しめる。 オオカミだけでなく、赤ずきんイチゴずきんやリンゴずきんと呼ばれて固有名詞が排されているところも、雰囲気が出ていてよかった。 物語は主人公の一人称視点で進むけれど、三人称視点でずきんみんなのパートがある形でもおもしろそう。書くの大変そうだけれど。

inbox - 霊感少女は箱の中 1~3

『霊感少女は箱の中』の1~3巻を読んだ。ホラーだよ、ホラー。怖いよー。イメージ的にもメンタル的にも抉ってくるよー。1、2巻はそれぞれ話が完結しているけれど、3巻は続くから生殺しだよ……。 シリーズもののオカルトは危険だ。続いていたら怖いものみたさで次から次へと読んでしまうし、続きがまだなくても解決を見ないままの宙づりが辛い。 毒をもって毒を制すというか、霊障に霊障をぶつけているので、シリーズの行く末も気になる。人を呪わば穴二つというけれど、呪う人を呪いで制すと穴がいくつあっても足りないんじゃないだろうか。

あきない - 廃墟の美術史@松濤美術館

松濤美術館に行って『終わりのむこうへ:廃墟の美術史』 を見てきた。廃墟に吸い寄せられるように。 前半で展示されていた古典絵画に描かれている廃墟は過去の栄華を表しているという趣旨の解説で、見え方が変わった。現在の視点で考えると、古典絵画なんて廃墟の仲間だけれど、当時の視点ではそれが絵画が最新でそこに描かれている廃墟は過去の遺物だ。 きっと当時は今より廃墟が身近にあったんだろうな、と想像する。今のようにさっさと取り壊されたりも、あるいは遺産として保護されたりもしていなかったんだろうな、と。 でもそれは過去の話で、今や廃墟はやがて行く末だ。そんな風に思う人は一定数いるらしい。後半では最近の作品が展示されていて、廃墟と化した渋谷を描いた作品なんかもあった。 どうして火に入る夏の虫のように廃墟に惹かれるのだろう。生来の悲観的なものの見方のせいか、ディストピアSFのせいか、『平家物語』のせいか。 春の夜の夢の寝言。まだ冬だけれど。 なお開催が1/31までなので。もう終わってしまっている。

ワイヤレス - イップマン 序章、 葉問、 継承

『イップマン 序章』、『〃 葉問』、『〃 継承』の3本を見た。ドニー・イェン主演のカンフー映画。実在の武術家・葉問を演じている。 緊張感をもって見られたのは序章。これが一番よかった。日中戦争が絡んでいるので、複雑かつ重たい気持ちにはなるが。 葉問は、最後の戦いがスッキリしない。相手のボクサーはただ凶暴なだけだし、周囲も彼が不利と見るやイップマンに制約を課す始末。 継承はやや話が渋滞気味だった印象。地上げ屋、ボクシングの名誉回復、よく似た境遇の男との戦い。そして、イップマンにとっての武術――詠春拳と家族。 と脚本に好みの差はあれど、どの作品のアクションシーンも見応え十分。それを目当てに見たわけで、そういう基準ではどれもよかった。CGやワイヤーではないアクションを見たかったので満足(ゼロではなかったけれど)。

いっせっせーの - 数字を一つ思い浮かべろ

『数字を一つ思い浮かべろ』を読んだ。 主人公デイヴ・ガーニーは元警察。すでに引退して妻と二人で暮らしている。事件は彼のところに大学時代のクラスメイトから手紙が届くところから始まる。自分なら不意に届いた知人からの手紙なんて気持ち悪くて捨ててしまいそうだけれど、彼は事件の相談とあっては捨て置けず、わざわざクラスメイトを訪れる。 こうして引退してからも自ら犯罪捜査に関わっていくデイヴを、もちろん妻マデリンは快く思わない。心配する様子を見せたり、苛立ちを露わにしたり、放っておいたり、と落ち着かない。デイヴ自身もときに自問して自己疑念に囚われたりする。それでいて、あるいはそれだからこそ、捜査に集中する。捜査以外を視界から外してしまう。 似たような面倒臭さには自分もよく悩まされて、そのうえいつまでも悩んでいていいのだろうか? とメタ悩みまで発生させてしまうくらいなのだけれど、デイヴの術会を読んでいると、諦観だか達観だかの念が湧く。引退後の警察官まで悩んでいるのだから、つきあい続けることになるのだろう、と。 ミステリィを読んだにしては珍しく、謎解き要素ではなくガーニー夫妻の関係に目が向いたのは、数字当てのトリックの答えを知っていたから。ネタバレしていたわけではなく、数学か統計の読み物で読んでいた。それじゃないといいなと思っていたのでそこが残念。 こういうこともあるだろう。それでも楽しめたのは前述のとおり。 ところで本作といい、『ミスター・メルセデス』といい、〈バック・シャッツ〉シリーズといい、たまに翻訳ミステリィを読むと主人公が引退後の警官というのは偶然なんだろうか。それともアメリカでは読者層の高齢化が進んでいるのだろうか。 文化庁の『平成 25 年度「国語に関する世論調査」の結果の概要』 を見ると、日本では60代以上の年齢層は60代未満より一ヶ月に1冊も本を読まない比率が多いようだけれど(視力の衰えもあるか)。 さらに余談。数字当てというと「いっせっせーの」を思い出す。いろいろとかけ声のバリエーションがあって、調べるとおもしろい。中にはまじめに答えずネタじゃないかというようなレベルのものもあったが。自分が実際にやったことがあるのだと、「んー」がタイミングの駆け引きも発生しておもしろかった。ものっそい短く言って指をあげさせないのを狙ったり。 脱線が

戦う泡沫 - 終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか? #06, #07

『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06, #07を読んだ。 『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06と#07を読んだ。#06でフェオドールの物語がひとまずは決着して、#07から第二部開始といったところ。 これまでの彼の戦いが通過点のように見えてしまったのがちょっと悲しい。もしも#07がシリーズ3作目の#01になっていたら、もう少し違って見えたかもしれない。物語の外にある枠組みが与える影響は、決して小さくない。 一方で純粋に物語に抱く感情なんてあるんだろうか? とも思う。浮かび上がる感情には周辺情報が引き起こす雑念が内包されていて、やがて損なわれてしまうことになっているのかもしれない。黄金妖精 (レプラカーン) の人格が前世のそれに侵食されていくように。

垂直統合 - ψの悲劇

『 ψ ( プサイ ) の悲劇』を読んだ。森博嗣による〈Gシリーズ〉の5冊目であり、『 χ ( カイ ) の悲劇 』に続く後期三部作の第二部。 本書の背表紙で〈Gシリーズ〉は「 失われた輪 ( ミッシングリンク ) をつなぐ」と形容されているせいか、内容=輪そのものよりも、位置づけ=どこから失われたのかの方が気になる。 〈Gシリーズ〉を締め括るのが『 ω ( オメガ ) の悲劇』というタイトルなので、素直に〈Wシリーズ〉につながるんだろうと思っている。ギリシャ文字のωが対応するアルファベットはWだ。〈Wシリーズ〉で描写されているウォーカロンの要素技術 が形になりつつあることも読み取れるし。 その〈Wシリーズ〉は『人間のように泣いたのか?』で完結している。こちらでの真賀田四季博士の状態を考えると〈Gシリーズ〉で彼女はなすべきを終えるのだろう。終えたところだということが示唆される程度に留まるかもしれないけれど、どのような縦糸が通ることになるのか。 ところで 浮遊工作室 (近況報告) によると、『ωの悲劇』は2020年。今年は新シリーズが始まるらしい。どんな物語が始まるのかな。

bet time story - 賭博師は祈らない1~5

『賭博師は祈らない』の1~5巻を読んだ。これにて完結。5巻が発売されると知って積ん読をようやく読み始めたら、すっかり引き込まれて発売を待たずして全巻既読に[1]。 電撃文庫から発売されているけれど、ライトノベルに留まらない一般性を感じる。テンプレっぽいラノベ(異世界、能力バトル、ハーレム)は受け付けない、逆それらしか受け付けない、どちらの人にもお勧めできる(のでこうしている)。 まず舞台設定。十八世紀末のロンドン。異世界でもないし、剣も魔法も超自然も出てこない。登場人物達が異能力を持っていたりもしない。主人公ラザルスはじめ、賭博師たちが尋常ではない能力を発揮するけれど、手品や占い (ホット/コールド・リーディング [2]) の技術の延長線上。 そして魅力的な登場人物達。主人公ラザルスは鈍感でも難聴でもない。鈍感な賭博師だったりしたら、いいカモにされてしまう。賭博の場から離れた途端に難聴になったりもしない。そもそも表紙を飾るリーラとのコミュニケーションは筆談だ。彼女は言葉を発することができない。ついでに言っておくと最初から好感度MAXだったりもしない。むしろマイナススタート(念のためいっておくがツンデレ・クーデレの類でもない)。 脇を固めるキースとジョンもそれぞれの生き様があってよい。自分はジョンの豪放磊落さ加減がお気に入り。1巻あとがきによると、ジャック・ブロートンという実在の人物が元ネタとのこと。ボクシングのルールを制定した人らしい[3]。二人とも、全てを投げ打って主人公を助けたりはしない。この距離感が心地良い。 もちろん賭博シーンも手に汗握る。のだけれど、それ以上に面白いのがメタゲーム。大事なのは、ただ勝つことではなくて、それで得るものということを改めて思い出させてくれる (好きにできるお金の範囲で過程を楽しむ娯楽は別として)。だから目的のものを持っている相手を、テーブルにつかせて、さらにそれを賭けさせないといけない。だから賭博の場が開かれる前から引き込まれてしまう。それはもうぐいぐいと。 一方で、相手にそれを賭けさせるということは自分も相応の何かを賭ける必要がある。お互いが自分の手にしているものより相手の手にしているものの方が欲しいなら、売買なり交換なりで穏便に片がつく。養父から「何かを得たならば、それは何かを賭けたということ」で「往々

リアル・シリアル・ソシアル - アイム・ノット・シリアルキラー

『アイム・ノット・シリアルキラー』(原題 "I Am Not a Serial Killer")を見た。 いい意味で期待を裏切ってくれて、悪くなかった。最初はちょっと反応に困るったけれど、それも含めて嫌いじゃない。傑作・良作の類いではないだろうけれど、主人公ジョンに味がある。 この期待の裏切り方に腹を立てる人もいるだろう。でも、万人受けするつもりがない作品が出てくるのって、豊かでいいよね(受け付けないときは本当に受け付けないけれど)。何が出てくるかわからない楽しみがある。

私は今、感想を書き終えた - あなたは今、この文章を読んでいる。

『あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生』を読んだ。この本はSFマガジンに16回に渡り連載された「パラフィクション論序説」が単行本化されたもの。 二部構成となっており、第1部「メタフィクションを越えて?」では「過去三十年ほどの時代的な変化と干渉し合い浸透し合うにつれて、どうもあまり望ましいとは言い難い「作者/読者」としての心性が醸造されてきたのではないかと思われる」問題が扱われる。第2部「パラフィクションに向かって」では、その「望ましからざる「心性」」を乗り越えようとしている「メタフィクション」から「パラフィクション」という概念の抽出が試みられる。 プロローグにはそんなことが書かれているのだけれど、その問題が具体的には何なのかも、「パラフィクション」がどんなものでその問題をどう解決するのかも、いまいちクリアにならなかった。 ざっくり整理してみよう。 まず発展の歴史。最初は「虚構」から「現実」に引き戻す「批判的メタフィクション」だった。次に「現実」に「虚構」を持ち込む「関与的メタファクション」へ派生した。さらに「虚構」化した「現実」を再度「虚構」として提示する「受容的メタフィクション」へと変遷した。これがこの本の歴史観。 次にこの変化を通して醸造されてきた(作者にとって)望ましくない「作者/読者」としての心性。作者にとっては、「メタは「作者性」への反省、批判、解体を企図しているかに見えて、その実、やればやるほど「作者」の機能と専制を確認することになっしまう」ことを問題視している[1]。読者にとっては、「虚構」化された「現実」の受容が、現状への批判意識の抑圧につながりかねないことを問題視しているようだ。 それで、「パラフィクション」は「軸足を、思い切って「作者」から「読者」へと引き渡す」ことのようだ。ただし、読みの多様性などにフォーカスして、「読者」の名の下に「作者性」を奪取するという話ではないとのこと。作者のいう「パラフィクション」的な作品として円城塔の『Self-Reference ENGINE』が取り上げられる[2]。 まず思ったことは「これ問題か?」という疑問。そういう本しかなくなる=言論統制が図られたらと思うと背筋が凍るが、これはメタフィクション小説についての話だ。次の「パラフィクション」についてはよくわからない

ブルーノ・ムナーリ ― 役に立たない機械をつくった男/アフリカ現代美術コレクションのすべて@世田谷美術館

世田谷美術館へ行って、『ブルーノ・ムナーリ ― 役に立たない機械をつくった男』展と『アフリカ現代美術コレクションのすべて』を見てきた。まずは前者から簡単に感想を。 幾何学的に構成された絵、モールのような作品(これが《役に立たない機械》)、絵本、タイポグラフィー作品などなど、作品形態の多様さに驚かされる。当時の新技術だったスライド(≠PowerPoint)を使った作品(今ならメディアアートと呼ばれるだろうか)もあった。 たまたま自分が最近知ったからか、何回かソ連の芸術を連想した。幾何学的な構成やタイポグラフィーからはロトチェンコ(ロシア構成主義)を、正方形から切り欠いたキャンバスを作りそこに図形を配置した《陰と陽》からはマレーヴィチ。より抽象的には、表現形態に拘泥しないところも共通しているように見える。 続いて『アフリカ現代美術コレクションのすべて』について、二言三言。 エル・アナツイ(El Anatsui)という方の《あてどない宿命の旅路》の不安定さが目を惹く。小さな地震かなにかで崩れたりしないのだろうか。それからアブラデ・グローヴァー (Ablade Glover) の《タウン・パノラマ》の密度。こういう作品、ずっと見ていられる。探せばWebで解像度の高い写真も見られるけれど、絵の具の厚みなんかもわかって直接見た方がおもしろい。 This work by SO_C is licensed under a CC BY-SA 4.0 .