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fool, cool, tool - 勉強の哲学 来たるべきバカのために

『勉強の哲学 来たるべきバカのために』を読んだ。

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ここでいう〈勉強〉とは、あるノリから、いままでに比べてノリが悪くなってしまう段階を通って、「新しいノリ」に変身すること。〈ノリ〉は、環境のコードに習慣的・中毒的に合わせてしまっている状態を指している。

自分のざっくりとした理解では、空気を読めている状態。もう少しフォーマルな環境なら、TPOに合わせているといったところか。

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その〈勉強〉をするためには、言語偏重になる必要があると説いている。環境ごとに固有の言葉や独特の意味を持つ言葉があり、その用法に無自覚に従い続けていると、その環境から離れられない。だから、新しいノリに変身するには、言語の用法に自覚的にならないといけない、という話。本書では、言語に対するこのような捉え方を説明するにあたって、哲学者ヴィトゲンシュタインの〈言語ゲーム〉という考え方が参照されている。

この捉え方が自分にもすんなり入って来たのは、国語辞書編纂者の著書『辞書を編む』の影響か。それから、言葉を足がかりにしてノリを移動するという話なので、『弱いつながり 検索ワードを探す旅』を連想する。その著者である東浩紀さんは、
僕の世代の大学院生にとって、東さんは憧れのモデルだったと思います。
引用元: 気鋭の哲学者・千葉雅也の東大講義録 #1「勉強とは何か」 | 文春オンライン
とのことなので、無関係ではないのかな? 『弱いつながり 検索ワードを探す旅』でも、
だからこそ、自分を変えるためには、環境を変えるしかない。人間は環境に抵抗することはできない。環境を改変することもできない。だとすれば環境を変える=移動するしかない。
引用元:『弱いつながり 検索ワードを探す旅』
という話だし。

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ここからは〈勉強〉から脱線して、本書ではあまり触れられない〈練習〉について少し。筋トレや美術の話があるにも関わらず、ほとんど触れられていないということは、きっと意図的にオミットされているのだろう。そう推測しているのだけれど、あえて。つまり、いくら言語を駆使して勉強しても、練習なくして実践はできないのでは?、という話。

筋トレだと生理学的な問題も絡むし、美術――でも自分の体験を語れないので、趣味の落描きレベルの話ではあるけれど。

それでも、言語では掬いきれない領域があるのではないか? と感じる。仮に未知の言語でその領域を掬い取れたとしても、その環境を探すより練習した方が早そうだ、とも。昔からの言い方をするなら「習うより慣れろ」と。

イメトレも効果はあるだろうけれど、「事実は小説よりも奇なり」ともいうし、身体を動かしてみて初めて得られる情報も少なくないと思う。

哲学のような、素朴には身体的な活動が必須ではないように思える環境でも、きっとそう。出力が必要。キーボードでタイプしたり、紙に書いたり、人を前に口にしたり、そうして初めて気がつくことも少なくないと思う。

少なくとも自分はそう。という話だけれど。自分は手を動かさないと、環境を移れそうにもないという話だけれど。他人のそういう出力をもっと読みたいという個人的な欲望もあるかもしれないけれど。

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一方で、あまりに環境を無視した一個人の妄執に憑かれたような出力(いわゆるクソリプか)は、それはそれで読むと辛いのだけれど。

たとえ同じ言葉を使っていても「環境のコードが違うと通じない」と考える人が増えるといいなと願う。

良くも悪くも言葉は道具。

通じなくても、身振り手振りや声の大きさなどの非言語要素で何とかなったりする一方で、テキストコミュニケーションではどれだけ言葉を費やしても炎上したりもする。

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