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2009年に読んだ本を振り返る

2009年も残すところ、あと一週間になった。
ここで、今年読んだ本を振り返ってみる。

今年は全部で約140冊読んだ。
そのうち、小説が約50冊。非小説が、約90冊。
切りがないので、非小説はこれ以上細かく分類しない。

それぞれから、印象深かった本を3冊ずつ選んでみた。
選ぶ際に、全体を見渡して初めて気がついた繋がりに基づいて、キーワードを挙げてみた。



では、まず小説からこの3作。
キーワードは、「作中作」。
再帰的な構造には、どこか惹かれるものがある。

『はてしない物語』
Mirror House Annex: 希望・欲望・希求・欲求

『アイの物語』
Mirror House Annex: 「分かる」が「変わる」

『中庭の出来事』
Mirror House Annex: アウトインアウト

上から順に段々と、作中の現実と作中作との境界が曖昧になっていく。

何が作中の現実で何が虚構か分からなくなる感覚が好き。
もちろん小説だから全部虚構だけれど、現実だって一炊の夢ではないとも限らない。
脱構築的な発想をすれば、夢がなければ現実の厳しさを知覚できないし、現実がなければ夢の美しさは失われる。

実はもう1冊作中作を扱った作品を読んだけれど、どれか明かすと面白さが損なわれるので割愛。



つづいて、非小説からこの3冊。
キーワードは「自由意思」。
哲学的な響きだけれど、「思い通りに生きるには?」と考えると切実な響きを帯びる。

『服従の心理』
Mirror House Annex: 服従からの自由

『誘惑される意志』
Mirror House Annex: 時間とともに

『自由をつくる自在に生きる』
Mirror House Annex: どこ吹く風

1冊目は、シチュエーションを整えれば多くの人が意思に反した振る舞いをすることを実験で示している。空気を読む力の恐ろしさが垣間見える。

2冊目は、個人の意思決定の仕組みをピコ経済学と称して紹介している。意思は一枚岩ではないというモデルから、後悔すると分かっている行動を選択してしまうメカニズムに迫る様がスリリング。

3冊目は、森博嗣のエッセイ。自由は貰えるのを待っていても得られない。実験結果は大半が空気を読んで振る舞うことを示しているけれど、後悔する決定を何回も繰り返す意思だけれど、行動を選ぶのも、良い結果を得るのも、悪い結果を受けるのも自分だ。

だから、自分を自由にできるのは、自分だけ。
来年は、もっと自由に生きたいな、と思う。



最後に、昨年に書いた同じ趣旨のエントリィのリンクを参考までに。
Mirror House Annex: 2008年の読書を振り返る

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