スキップしてメイン コンテンツに移動

adept adapt - 映画原作派のためのアダプテーション入門 フィッツジェラルドからピンチョンまで

『映画原作派のためのアダプテーション入門 フィッツジェラルドからピンチョンまで』を読んだ。

キッカケはラジオ番組『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』で紹介されていたこと。映画原作派というわけではないけれど、裏表紙の質問
Q. 映画化作品を観ながら、その場で原作を確認したくなったことがある→YES/NO
への回答がYESだったというのもある。比べるの楽しい。

📖

ここでいうアダプテーションは、あるメディアで発表された作品を別のメディアに適応させること。具体的には、映画化、アニメ化、ノベライズ、コミカライズ、ゲーム化など。映画のリブート・リメイクはどうなんだろ。メディアこそ同じだけれど、異なる時代に適応させるために変更しているから、かなり近い意けれど。ともあれ、本書はフォーカスを合わせているのは、その中の一つ小説の映画化。だから「映画原作派のための」というタイトルということだろう。

なんだけれど、本書で紹介されている映画/原作小説をほとんど読んだことがなかったり、比率的には映画化以外のアダプテーションに触れる機会の方が多かったりするせいで、どうしても思考が発散してしまう。

というわけで、感想を書いてみたらとっ散らかった長文が出来上がってしまった。

🎬

本書は、まず〈映画化〉されて、はじめて〈ただの小説〉が〈原作小説〉になるという話から始まる。この対比は、ジャック・デリダの思想〈脱構築〉を思い出す。〈脱構築〉では、〈パロール(話し言葉)〉と〈エクリチュール(書き言葉)〉の関係を問題にしているけれど、本書がいう〈小説〉と〈映画〉の関係はこれによく似ているように思う。

単純に考えると、小説があって初めてそれをアダプテーションして〈映画〉にできるのだから、〈映画〉が〈小説〉に依存しているのであって、その逆ではない。しかし、映画化されているかどうかで小説に対する評価は、変わる。つまり、ひとたび映画化されてしまうと〈小説〉は、〈映画〉から独立した存在として捉えられなくなる。

これが〈ただの小説〉から〈原作小説〉になるという話なんだろう、と理解した。とくに次の一節なんかは、とても脱構築的な気がする。
映画鑑賞後に手に取った原作は、確かに映画では語られなかった何かを教えてくれはするけれど、それは決して「本当は何が語られていたか」を語るものではないということ。そして、アダプテーションは、本ものか偽ものか、という二分法のみで向きあうものではないということ。
引用元: 『映画原作派のためのアダプテーション入門 フィッツジェラルドからピンチョンまで』「終章 原作が作者不詳となる日まで

📖

思想つながりでもう少し。『ゲンロン0 観光客の哲学』の「付論 二次創作」もこういう話をしていた記憶があったので、読み返してみた。このあたりなんか、本書の話とよく似ている。
ネットには「原作厨」という興味深いスラングがある。作品の映像化にあたり、なによりも原作の世界観が大事だと考える人々を指す言葉だ。アニメ化ならともかく、小説やマンガの実写ドラマ化や実写映画化では、どうしてもある程度二次創作的な、つまり原作を変える部分が出てくる。引用元: 『ゲンロン0 観光客の哲学』「付論 二次創作」
ミステリィを読んでいる人なら、〈叙述トリック〉のことを考えれば、「どうしても」無理だと分かると思う。

本書でも、「第1章 アダプテーションとトランスレーション」で同じ問題を提起して、映画化というアダプテーションで起こることについて「第5章 長過ぎる「原作」はどうすればいいのか」について具体的に論じている。
冷静に考えてみれば分かるように、小説と映画を、同じ尺度で評価することはできない。(中略)その前に、「コンテンツ」に具体的な形を与えている「メディア」についても考える必要があるだろう。
引用元: 『映画原作派のためのアダプテーション入門 フィッツジェラルドからピンチョンまで』「第1章 アダプテーションとトランスレーション」
と、言われてみればその通りなのだけれど、つい熱くなってしまうのはどうしてだろう? と言う疑問が湧く。

🎬

「コンテンツ」と「メディア」というと、有名な『メディア論』の「メディアはメッセージである」を思い出す (未読なので持ち出すのに気が引けるけれど)。これは小説の映画化という明白なアダプテーションどころか、同じ内容でもメディアによって受け取るものが違うという話(と理解できる説明を何回か見聞きした)。手書きの手紙とEメール、ラジオでのオンエアとWalkmanでの再生、紙の本と電子書籍、それに映画館で観る映画とテレビで見る映画。同じコンテンツでも、受ける印象が大きく変わる。

繰り返しになるけれど、映画館で観た映画をテレビで観ながら「やっぱり映画館で観た方がおもしろいな」と感じる一方で、「映画が原作小説に忠実でない」と不満を覚えるのは、いったいどういう了見なんだろうか? 我ながら不思議だ。

📖

ここまでは小説→映画以外のアダプテーションに対して、メディアの組み合わせを増やす方向に散らかした。それだけじゃなくて、原作→派生作品という前後関係も、そんなに単純じゃない。

いわゆるメディアミックス作品のこと。最初から派生することを織り込んで企画されているこれらの作品群では、〈原作〉が曖昧になる。『ゲンロン0 観光客の哲学』では二次創作を例に挙げているけれど、今では公式も大概だ。「公式が病気」という褒め言葉を見かけたりするくらい。
作品自体があらかじめ消費環境を織りこんでいるので、分析者もそれを考慮して作品に向かわなければならな。いわば「メタ作品」を分析する「メタ視線」が必要になる。二次創作を想定して原作が作られるというのは、まさにその状況の好例である。
引用元: 『ゲンロン0 観光客の哲学』「付論 二次創作」

本書でも「第4章 インターテクスチュアリティの快楽」で作品外の参照について言及しているけれど、映画化を織り込んで書かれた小説とその映画という位置づけで紹介されていたペアはなかったように思う。「第1章 アダプテーションとトランスレーション」「2. 映画のような原作小説『ファイト・クラブ』」が比較的近いか。

🎬

こうやってまとまらないのは、やはり身近に触れるアダプテーションのバリエーションが増え続けているからだと思う。『planetarian 〜星の人〜』なんか、ゲームがあって、小説があって、配信アニメがあって、劇場アニメがあって、プラネタリム特別版まである。そして、しばしば派生は予め織り込まれる(それで話が広がるのは歓迎だけれど、派生させる余地の分せばめる深夜アニメの劇場版商法はやり過ぎだと思う。せめて予め宣言して欲しい)。

もう少し詳しく知りたくなるという意味で「入門」としてそれくらいを狙ったのかもしれないけれど、これだけとっ散らかったしまったのでどうしてくれようか、という気分。引用文献にあたればいいのか。

このブログの人気の投稿

北へ - ゴールデンカムイ 16

『ゴールデンカムイ 15』、『〃 16』を読んだ。16巻を読み始めてから、15巻を買ったものの読んでいなかったことに気がつく。Kindle版の予約注文ではままあること。 15巻は「スチェンカ・ナ・スチェンク」、「バーニャ(ロシア式蒸し風呂)」と男臭いことこのうえなし。軽くWebで調べてみたところ、スチェンカ・ナ・スチェンク (Стенка на стенку) はロシアの祭事マースレニツァで行われる行事のようだ[1]。それなりになじみ深いものらしく、この行事をタイトルに据えたフォークメタルStenka Na StenkuのMVが見つかった。 16巻では杉元一行は巡業中のサーカスに参加することになる。杉元と鯉登の維持の張り合いが、見ていて微笑ましい。鯉登は目的を見失っているようだが、杉元もスチェンカで我を失っていたので、どっこいどっこいか。なお、サーカス/大道芸を通じた日露のつながりは、実際にもこのような形だったようだ[2]。 個々のエピソードから視線を上げて、全体の構図を眺めてみると、各勢力がすっかり入り乱れている。アシㇼパは尾形、キロランケ、白石とともにアチャの足跡を辿り、そのあとを鶴見のもとで家永の治療を受けた杉元が鯉登、月島を追っている。今更だけれど、杉元やアシㇼパは、第七師団と完全に利害が衝突していると考えていないはずだった。一方で、土方一味も入墨人皮を継続。むしろ彼らの方が第七師団との対立が深刻だろう。さらに北上するキロランケはまた別の目的で動いているようだけれど、なんで尾形も一緒なんだっけ? 『進撃の巨人』に引き続き、これもそろそろ読み返す時期か。 [1] 5つの暴力的な伝統:スラヴ戦士のようにマースレニツァを祝おう - ロシア・ビヨンド [2] ボリショイサーカスの源流は、ロシアに渡った幕末日本の大道芸人たちにあった 脈々と息づく「クールジャパン」 | ハフポスト

Memory Free - 楽園追放 2.0 楽園残響 -Goodspeed You-

『楽園追放 2.0 楽園残響 -Goodspeed You-』を読んだ。映画 『楽園追放 -Expelled from Paradise-』 の後日譚にあたる。 前日譚にあたる『楽園追放 mission.0』も読んでおいた方がいい。結末に言及されているので、こちらを先に読んでしまって後悔している。ちなみに、帯には「すべての外伝の総決算」という惹句が踊っているけれど、本作の他の外伝はこれだけ [1] 。 舞台は本編と同じでディーヴァと地球だけれど、遥か遠く外宇宙に飛び立ってしまったフロンティアセッターも〈複製体〉という形で登場する。フロンティアセッター好きなのでたまらない。もし、フロンティアセッターが登場していなかったら、本作を読まなかったんじゃないだろうか [2] 。 フロンティアセッターのだけでなくアンジェラの複製体も登場するのだけれど、物語を牽引するのはそのどちらでもない。3人の学生ユーリ、ライカ、ヒルヴァーだ。彼らの視点で描かれる、普通の (メモリ割り当てが限られている) ディーヴァ市民の不自由さは、本編をよく補完してくれている [3] 。また、この不自由さはアンジェラの上昇志向にもつながっていて、キャラクタの掘り下げにも一役買っていると思う。アンジェラについては前日譚である『mission.0』の方が詳しいだろうけれど。 この3人の学生と、フロンティアセッターとの会話を読んでいると、フロンティアセッターがフロンティアセッターしていて思わず笑みがこぼれてしまう。そうして、エンディングに辿りついたとき、その笑みが顔全体に広がるのを抑えるのに難儀した。 おめでとう、フロンティアセッター。 最後に蛇足。関連ツイートを 『楽園残響 -Goodspeed You-』読書中の自分のツイート - Togetterまとめ にまとめた。 [1] 『楽園追放 rewired サイバーパンクSF傑作選』は『楽園追放』と直接の関係はない。映画の脚本担当・虚淵玄さんが影響を受けたSF作品を集めた短編集。 [2] フロンティアセッターは登場しないと思って『mission.0』を読んでいない。 [3] 本編では、保安局高官の理不尽さを通して不自由さこそ描かれてはいたものの、日常的な不自由は描かれていなかったように思う。アンジェラも凍結される前は豊富なメ

報復前進

『完全なる報復 (原題: Law Abiding Citizen)』 を観た。 本作では、家族を押し入り強盗に殺された男クライドが、その優れた知能と技術でもって犯人に報復する。 ここまでで半分も来ていない。本番はここから。 クライドの報復はまだまだ続く。 一見不可能な状態からでも確実に報復を続けるクライドが、冷静なのか暴走しているのか分からず、 緊張感をもって観ていられた。 欲を言えば、結末にもう一捻りあると嬉しかった。 ちょっとあっさりし過ぎだと感じてしまった。