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adept adapt - 映画原作派のためのアダプテーション入門 フィッツジェラルドからピンチョンまで

『映画原作派のためのアダプテーション入門 フィッツジェラルドからピンチョンまで』を読んだ。

キッカケはラジオ番組『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』で紹介されていたこと。映画原作派というわけではないけれど、裏表紙の質問
Q. 映画化作品を観ながら、その場で原作を確認したくなったことがある→YES/NO
への回答がYESだったというのもある。比べるの楽しい。

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ここでいうアダプテーションは、あるメディアで発表された作品を別のメディアに適応させること。具体的には、映画化、アニメ化、ノベライズ、コミカライズ、ゲーム化など。映画のリブート・リメイクはどうなんだろ。メディアこそ同じだけれど、異なる時代に適応させるために変更しているから、かなり近い意けれど。ともあれ、本書はフォーカスを合わせているのは、その中の一つ小説の映画化。だから「映画原作派のための」というタイトルということだろう。

なんだけれど、本書で紹介されている映画/原作小説をほとんど読んだことがなかったり、比率的には映画化以外のアダプテーションに触れる機会の方が多かったりするせいで、どうしても思考が発散してしまう。

というわけで、感想を書いてみたらとっ散らかった長文が出来上がってしまった。

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本書は、まず〈映画化〉されて、はじめて〈ただの小説〉が〈原作小説〉になるという話から始まる。この対比は、ジャック・デリダの思想〈脱構築〉を思い出す。〈脱構築〉では、〈パロール(話し言葉)〉と〈エクリチュール(書き言葉)〉の関係を問題にしているけれど、本書がいう〈小説〉と〈映画〉の関係はこれによく似ているように思う。

単純に考えると、小説があって初めてそれをアダプテーションして〈映画〉にできるのだから、〈映画〉が〈小説〉に依存しているのであって、その逆ではない。しかし、映画化されているかどうかで小説に対する評価は、変わる。つまり、ひとたび映画化されてしまうと〈小説〉は、〈映画〉から独立した存在として捉えられなくなる。

これが〈ただの小説〉から〈原作小説〉になるという話なんだろう、と理解した。とくに次の一節なんかは、とても脱構築的な気がする。
映画鑑賞後に手に取った原作は、確かに映画では語られなかった何かを教えてくれはするけれど、それは決して「本当は何が語られていたか」を語るものではないということ。そして、アダプテーションは、本ものか偽ものか、という二分法のみで向きあうものではないということ。
引用元: 『映画原作派のためのアダプテーション入門 フィッツジェラルドからピンチョンまで』「終章 原作が作者不詳となる日まで

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思想つながりでもう少し。『ゲンロン0 観光客の哲学』の「付論 二次創作」もこういう話をしていた記憶があったので、読み返してみた。このあたりなんか、本書の話とよく似ている。
ネットには「原作厨」という興味深いスラングがある。作品の映像化にあたり、なによりも原作の世界観が大事だと考える人々を指す言葉だ。アニメ化ならともかく、小説やマンガの実写ドラマ化や実写映画化では、どうしてもある程度二次創作的な、つまり原作を変える部分が出てくる。引用元: 『ゲンロン0 観光客の哲学』「付論 二次創作」
ミステリィを読んでいる人なら、〈叙述トリック〉のことを考えれば、「どうしても」無理だと分かると思う。

本書でも、「第1章 アダプテーションとトランスレーション」で同じ問題を提起して、映画化というアダプテーションで起こることについて「第5章 長過ぎる「原作」はどうすればいいのか」について具体的に論じている。
冷静に考えてみれば分かるように、小説と映画を、同じ尺度で評価することはできない。(中略)その前に、「コンテンツ」に具体的な形を与えている「メディア」についても考える必要があるだろう。
引用元: 『映画原作派のためのアダプテーション入門 フィッツジェラルドからピンチョンまで』「第1章 アダプテーションとトランスレーション」
と、言われてみればその通りなのだけれど、つい熱くなってしまうのはどうしてだろう? と言う疑問が湧く。

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「コンテンツ」と「メディア」というと、有名な『メディア論』の「メディアはメッセージである」を思い出す (未読なので持ち出すのに気が引けるけれど)。これは小説の映画化という明白なアダプテーションどころか、同じ内容でもメディアによって受け取るものが違うという話(と理解できる説明を何回か見聞きした)。手書きの手紙とEメール、ラジオでのオンエアとWalkmanでの再生、紙の本と電子書籍、それに映画館で観る映画とテレビで見る映画。同じコンテンツでも、受ける印象が大きく変わる。

繰り返しになるけれど、映画館で観た映画をテレビで観ながら「やっぱり映画館で観た方がおもしろいな」と感じる一方で、「映画が原作小説に忠実でない」と不満を覚えるのは、いったいどういう了見なんだろうか? 我ながら不思議だ。

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ここまでは小説→映画以外のアダプテーションに対して、メディアの組み合わせを増やす方向に散らかした。それだけじゃなくて、原作→派生作品という前後関係も、そんなに単純じゃない。

いわゆるメディアミックス作品のこと。最初から派生することを織り込んで企画されているこれらの作品群では、〈原作〉が曖昧になる。『ゲンロン0 観光客の哲学』では二次創作を例に挙げているけれど、今では公式も大概だ。「公式が病気」という褒め言葉を見かけたりするくらい。
作品自体があらかじめ消費環境を織りこんでいるので、分析者もそれを考慮して作品に向かわなければならな。いわば「メタ作品」を分析する「メタ視線」が必要になる。二次創作を想定して原作が作られるというのは、まさにその状況の好例である。
引用元: 『ゲンロン0 観光客の哲学』「付論 二次創作」

本書でも「第4章 インターテクスチュアリティの快楽」で作品外の参照について言及しているけれど、映画化を織り込んで書かれた小説とその映画という位置づけで紹介されていたペアはなかったように思う。「第1章 アダプテーションとトランスレーション」「2. 映画のような原作小説『ファイト・クラブ』」が比較的近いか。

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こうやってまとまらないのは、やはり身近に触れるアダプテーションのバリエーションが増え続けているからだと思う。『planetarian 〜星の人〜』なんか、ゲームがあって、小説があって、配信アニメがあって、劇場アニメがあって、プラネタリム特別版まである。そして、しばしば派生は予め織り込まれる(それで話が広がるのは歓迎だけれど、派生させる余地の分せばめる深夜アニメの劇場版商法はやり過ぎだと思う。せめて予め宣言して欲しい)。

もう少し詳しく知りたくなるという意味で「入門」としてそれくらいを狙ったのかもしれないけれど、これだけとっ散らかったしまったのでどうしてくれようか、という気分。引用文献にあたればいいのか。

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