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批評必要? - ゲンロン4

『ゲンロン4』を読んだ。読むに至った経緯や読みながらの感想については、Togetterにまとめた[1]。このエントリィでは、特集「現代日本の批評III」の直前に置かれた「批評という病」を主に参照しつつ、自分がどんな「批評」をいつ読みたいのか書いてみる。

「批評という病」では、「批評」という言葉が二つの意味で使われている。

一つ目は、文字通りの意味での「批評」。孫引きになってしまうけれど、こうある。
批評とはなにか。それは本来はたいしてむずかしい問いではない。手元の辞書によれば、それは「物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること」を意味する言葉に過ぎない(『大辞泉』第二版)。

二つ目は「批評という病」。こちらはこの文章で使われている独自の用語。表面的には哲学エッセイだけれどそこに分類すべきではないと書かれている。
それはおそらくは、日本以外では哲学的エッセイと呼ばれ、哲学に分類されるタイプの文章である。
批評という病の本質は、ほんとうは、それが作品分析なのか「理論」なのか、倫理なのか存在論なのか、政治なのか文学なのか、読み手はもちろんのこと、原理的には書き手にすらわからない、そのような混乱の経験にあるのだ。

自分が「批評」と聞いて期待するのは、文字通りの意味での「批評」の方。批評対象の評価はもちろん、書き手の評価軸もきっちり書かれているとうれしい。星の数と申し訳程度に二言三言の感想が書かれているだけだと、数があってもどこか物足りない。反対に、自分が見落としたり見過ごしていたりしていた部分への解説だったり、自分にはない観点だったりが述べられていると申し分ない。長文でも音楽批評でありがちな、評価観点がよくわからない文章は苦手[2]

自分は、そういう批評を批評対象を体験した後に探す。その理由は大きく二つある。

第一に自分の評価結果と比べるため。そうすると、自分の評価軸を明確にできる。加えて、批評の書き手のような見方をするには自分には何が足りないかが見えてくる。

第二にネタバレを避けるため。詳しく批評しようとするとネタバレが避けられない作品もある。

要するに、評価対象をできるだけ楽しみたいのだ。言ってしまえば、自分は、批評に「もう1回、体験したい!!」と思わせてもらいたい。映画評論家・町山智浩さんがソムリエに喩えている評論に近い[3]

「批評という病」では、文字通りの意味での「批評」は溢れているとある。けれど、自分の観測範囲――つまりWebでは、だんだんと存在感が薄くなっているように感じている。
この意味での「批評」は、いまもむかしも世の中に溢れている。
代わりに存在感を増しているのは、「共同討議 平成批評の諸問題 2001-2016」の節「「書評」化する批評」にあるようにバイヤーズガイドだ。批評対象のタイトルに「評価」、「感想」、「レビュー」などをつけてググると、たいていこの3種類のサイトが上位を独占する。
  • ECサイト: Amazonや楽天など批評対象を商品として販売しているサイト。
  • レビューサイト: 読書メータや価格.comなど多数のユーザが批評を投稿できるサイト。
  • まとめサイト: NAVER、○○まとめ、××速報など、他サイトからコンテンツを集めてくるサイト。

これらのサイトに書かれている批評は、批評対象が体験される前に読まれることを前提としている。言ってしまえば批評対象が買われさえすればよいというスタンスさえありえる。これらも、批評の一種ではあるのだろうけれど、残念ながら自分が読みたいものではない。

探す場所が悪いのか、絶対数が減っているのか。こういう批評ってどこを探せば見つかるんだろうか。

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