『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』を読んだ。
本書には「抽象的に考える」とはどういうことか書かれている。しかし、「抽象的に考える方法」については具体的には書かれていない。「教えられないもの」だからだ。
じゃあ、「役に立たないのか?」というと、そういう問題ではないと言っている。そんな風に問わずにはいられない「具体的な方法」を偏重するスタンスが危ないんじゃないか? と重心の位置を問題にしている。
その主張は、自分にとっては概ね同意できる内容だった。著者が想定している読者よりは、抽象的に考える傾向があるようだ(と最初は思ったけれど、あとがきを読むに自分が想定した著者が想定している読者はズレていて、著者は自分くらいには抽象的に考える傾向がある読者を想定していた節がある)。
しかし、ここで短絡して「抽象的な思考(の結果としての発想)」を偏重してしまうと、それはそれで問題がある。本書の第5章で説明されている通り、最後には「具体的な行動」をとらないと物事は進まないし、うまく物事を進められる行動を選ぶには「論理的な思考(論理的な計算に近いもの)」が必要になる。
この分解が、自分にとってとても有用だった。「思考」とか「考える」とか「分かる」とか「論理的」とか「具体的」とか、このあたりの言葉に関する自分と周囲とのディスコミュニケーションの大部分が、これで説明できる。例えば、「自分の頭で考えて、自分の言葉で語れ」という趣旨の要求に、自分の言葉としての字面通り従うと高い確率で「分らない」と言われるけれど、この分解相手がこれらの言葉をどう理解しているか、推測しないといけなかった。
大雑把に言うと、「自分の頭で考え」たとしても、「相手の頭の中の言葉」で説明しないといけない。著者の言う通り「発想」についてあまり話さない方が良いし、「計算」についても相手を選んだ方が良い。傾向としては、よく言われる「論理的に説明する」や「具体的に説明する」は、自分にとっては「narrativeにストーリィを語る」や「事例を紹介する」と理解した方が、コミュニケーションがスムーズになる(この辺りのことは以前ロジカル・シンキングはロジカルか?やパワフル・ワッフルに書いた)。
今思うとバカ正直だったと思うし、こんなぼんやりとしたことを書いている今もバカ正直過ぎるんじゃないか、と危惧している。著者がこんな風に注意を促しているのを無視しているわけだし。
でも、もしかしたらアップしないかもしれない。というこのエントリィをあなたが読んでいることは、もうアップしてしまったということなのだけれど。と、ここまで読むのが自分だけしかいないかもしれない。それでも、将来の自分を他人と考えたら、アップして見つけやすくしておくことも自分のためだ。
最後に、本書からは否定的な印象を受けそうな「手法」についてもう少し肩を持っておく。確かに「具体的な手法」に頼りきってしまうと「マニュアル人間」になってしまう。でも、「具体的な手法」と「抽象的な型」とは明確に区別できるものではなく、連続している。プログラムで例えると、コピー&ペースト~イディオム~デザイン・パターン~アーキテクチャ・パターンというようなイメージ。本書では例として他者の観察から「型」を抽出することを挙げているが、おそらく『守破離』の過程を経て、手法の適用の繰り返しから型を抽出することだってできる。
何にせよ、具体的になると応用が効かなくなる一方で、抽象的になると展開に時間がかかるようになるだけだ。結局は、手持ちの手法の応用可能範囲と型の展開にかかる時間と、問題の性質と解決に使える時間とを天秤にかけながら「ちょっと考えて」、許容できる範囲でどうにかしないとどうにもならなくなる(お、なんか抽象的なこと言ってる気がする)。
本書には「抽象的に考える」とはどういうことか書かれている。しかし、「抽象的に考える方法」については具体的には書かれていない。「教えられないもの」だからだ。
じゃあ、「役に立たないのか?」というと、そういう問題ではないと言っている。そんな風に問わずにはいられない「具体的な方法」を偏重するスタンスが危ないんじゃないか? と重心の位置を問題にしている。
その主張は、自分にとっては概ね同意できる内容だった。著者が想定している読者よりは、抽象的に考える傾向があるようだ(と最初は思ったけれど、あとがきを読むに自分が想定した著者が想定している読者はズレていて、著者は自分くらいには抽象的に考える傾向がある読者を想定していた節がある)。
しかし、ここで短絡して「抽象的な思考(の結果としての発想)」を偏重してしまうと、それはそれで問題がある。本書の第5章で説明されている通り、最後には「具体的な行動」をとらないと物事は進まないし、うまく物事を進められる行動を選ぶには「論理的な思考(論理的な計算に近いもの)」が必要になる。
この分解が、自分にとってとても有用だった。「思考」とか「考える」とか「分かる」とか「論理的」とか「具体的」とか、このあたりの言葉に関する自分と周囲とのディスコミュニケーションの大部分が、これで説明できる。例えば、「自分の頭で考えて、自分の言葉で語れ」という趣旨の要求に、自分の言葉としての字面通り従うと高い確率で「分らない」と言われるけれど、この分解相手がこれらの言葉をどう理解しているか、推測しないといけなかった。
大雑把に言うと、「自分の頭で考え」たとしても、「相手の頭の中の言葉」で説明しないといけない。著者の言う通り「発想」についてあまり話さない方が良いし、「計算」についても相手を選んだ方が良い。傾向としては、よく言われる「論理的に説明する」や「具体的に説明する」は、自分にとっては「narrativeにストーリィを語る」や「事例を紹介する」と理解した方が、コミュニケーションがスムーズになる(この辺りのことは以前ロジカル・シンキングはロジカルか?やパワフル・ワッフルに書いた)。
今思うとバカ正直だったと思うし、こんなぼんやりとしたことを書いている今もバカ正直過ぎるんじゃないか、と危惧している。著者がこんな風に注意を促しているのを無視しているわけだし。
ぼんやりとしたものを、ときどきは言語化し、少し鈍くなったり、少し違うものになってしまうかもしれないが、他人に説明するつもりで、自分自身の確認のために具体的な表現を試みるのも、それなりに有効だと思われる。これは、ツイッタやブログにアップしない方が良い。あくまでも、自分のためだからだ。人目を気にしないことが大切である。しかし、「人目を気にしないで」「他人に説明するつもり」になれるほどには抽象的に考えられないので、自分自身のためにこうしてブログに書いている。ここ数年で、抽象度を下げて表現するよう心懸けた影響で思考の抽象度も下がり年を取って頭が硬くなってきているだろうし(「人目を気にしないで」「他人に説明するつもり」になれないのかもしれない)。
でも、もしかしたらアップしないかもしれない。というこのエントリィをあなたが読んでいることは、もうアップしてしまったということなのだけれど。と、ここまで読むのが自分だけしかいないかもしれない。それでも、将来の自分を他人と考えたら、アップして見つけやすくしておくことも自分のためだ。
最後に、本書からは否定的な印象を受けそうな「手法」についてもう少し肩を持っておく。確かに「具体的な手法」に頼りきってしまうと「マニュアル人間」になってしまう。でも、「具体的な手法」と「抽象的な型」とは明確に区別できるものではなく、連続している。プログラムで例えると、コピー&ペースト~イディオム~デザイン・パターン~アーキテクチャ・パターンというようなイメージ。本書では例として他者の観察から「型」を抽出することを挙げているが、おそらく『守破離』の過程を経て、手法の適用の繰り返しから型を抽出することだってできる。
何にせよ、具体的になると応用が効かなくなる一方で、抽象的になると展開に時間がかかるようになるだけだ。結局は、手持ちの手法の応用可能範囲と型の展開にかかる時間と、問題の性質と解決に使える時間とを天秤にかけながら「ちょっと考えて」、許容できる範囲でどうにかしないとどうにもならなくなる(お、なんか抽象的なこと言ってる気がする)。
抽象的に関連しているエントリィ
- 誰が読むのかによる
- 読解の限界
- I see but I do not observe.
- ロジカル・シンキングはロジカルか?
- 言葉を失う
- Without Thought
- Who thinks?
- ハーイ!
- 思考の試行
- 全然禅
- 全然禅2
- 改めて考える
- 一斬皆空