『数覚とは何か?』を読んだ。
数字というと理性の象徴のようだけれど、意外とそうでもないらしい、という話だった。感覚的・本能的な部分も少なくないらしい。言われてみれば、エサや獲物の数、捕食者の数を把握することは、死活問題だ。そのための感覚が備わっていてもおかしくない。だから『ぼくには数字が風景に見える』なんてことがあるのか、とも。
その感覚はしばしばミスリードに使われているように思う。似てはいるけれど比較すべきでない数字が並べられているニュース記事なんかを、しばしば見かける。数字を見せれば、相手はそれが関係のない数字でも反射的に比較・計算してしまうから、事実に基づかない印象を与えられる。
印象の発生自体は、抑えられない。それは「熱い」とか「痛い」と同じ感覚に分類されるからだ。だから、対策としては、咄嗟の印象を信用しないで、吟味し直すことになる。比較可能な値なのか? とか、その数字は実際問題として大きいのか? 小さいのか? とか、そもそのもその数字は信頼できるものなのか、とか。
これは『確信する脳』の結論に似ている。第一印象を抱きながら、対立する考えを進めなければならない。これは、自ら第一印象を覆そうとしているわけで、なかなか苦しいことだと思う。
数字というと理性の象徴のようだけれど、意外とそうでもないらしい、という話だった。感覚的・本能的な部分も少なくないらしい。言われてみれば、エサや獲物の数、捕食者の数を把握することは、死活問題だ。そのための感覚が備わっていてもおかしくない。だから『ぼくには数字が風景に見える』なんてことがあるのか、とも。
その感覚はしばしばミスリードに使われているように思う。似てはいるけれど比較すべきでない数字が並べられているニュース記事なんかを、しばしば見かける。数字を見せれば、相手はそれが関係のない数字でも反射的に比較・計算してしまうから、事実に基づかない印象を与えられる。
印象の発生自体は、抑えられない。それは「熱い」とか「痛い」と同じ感覚に分類されるからだ。だから、対策としては、咄嗟の印象を信用しないで、吟味し直すことになる。比較可能な値なのか? とか、その数字は実際問題として大きいのか? 小さいのか? とか、そもそのもその数字は信頼できるものなのか、とか。
これは『確信する脳』の結論に似ている。第一印象を抱きながら、対立する考えを進めなければならない。これは、自ら第一印象を覆そうとしているわけで、なかなか苦しいことだと思う。