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無地に描く無自覚

「日経オンラインビジネスに面白い記事を見つけたよ。
『「早期発見・早期治療でがんは治る」という医療保険の“神話”』ってタイトルの記事」

「どこが面白かったんですか?」

「次の一節」
ある外科医の方は「しょっちゅうCT検査をしてほしいと言ってくる人がいるが、そんなことよりタバコをやめるほうがよほど効果がある」とおっしゃいます。
「確か、ミステリ小説のQEDシリーズに登場する薬剤師も同じようなことを言ってた。
酒を飲み続ける患者に肝臓薬を処方して無駄だ、というような台詞だったかな?」

「面白いというか滑稽というか不可解というか」

「こういう構造は、健康問題の他にも見つかるよね。
自分の場合、家計簿をつけているけれど、そんなことよりUFOキャッチャーを止める方がよほどお金の節約になる」

「そのお金で本がどれだけ買えたんでしょうね?」

「蔑むような目で見るな。
ところで、CT検査にしろ肝臓薬にしろ家計簿にしろ、努力の方向を間違えているよね。全く目的達成に寄与していないのに」

「確かに。お金を節約すれば家計簿に結果が現われますけれど、いくら家計簿を見直したって1円の節約にもならないですね」

「反対に、努力の方向が正しくて、目的をすり替えている、という見方もできるかも。
この見方を取る場合、CT検査や肝臓薬や家計簿は、タバコを続けたり、酒を飲んだり、UFOキャッチャーをする際、後ろめたい思いをしないためのポーズになる」

「どちらが本当なんでしょうね」

「どちらの見方を選ぶかは、本人次第じゃないかな? どちらが目的でどちらが手段かは、本人にしか決められない。
あるいは、どちらも選ばずに、こうした構造を維持するのを目的とするのも、自由だと思う。
そうした場合、家計簿なら自分の時間を、CT検査や肝臓薬なら自分の時間プラス他人の時間と自分のお金と他人のお金も浪費しているのだけれど」

「そんなのが目的でいいんですかね?」

「いいか? と問われればよくない、と答えるだろうなぁ。けれど、実際にはそんな風に問わないまま、無自覚に浪費している場合が多いような気がする。
家計簿つけて何ヶ月になるかな……」

「それでいくら節約できたんでしょうね?」

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