『考える技術・書く技術』を読んだ。
技術なので、手段である。目的は、他人を変えることだ。
けれど、自分が読みたいと感じるのは、読んで良かったと感じるのは、自分の知らないことだ。
有り体に言えば、プロパガンダではないかと疑ってしまう。
正しいことが分かりやすければ、身の回りにもっと分かりやすくて正しいものがあるはずだ、と思う。
分かりやすいことと正しいことは、決定的に違う。
分かりにくいものは、受け入れられないからだ。
と言うのも、嘘はしつこい。
認識を変えるのに、正しさは必ずしも必要ではない。
何を受け入れて貰ったのかさえも、関心事ではないようだ。
メッセージが分かりやすければ、問題の正しさは二の次、三の次。
読み手によい物語を伝えようとすれば、その物語とは読み手がすでに知っているもの、または、十分な情報を与えられていれば、当然知っていると思ってさしつかえないものとなります。ここで紹介しているのは、自分の考えを他人に受け入れさせるための技術である。
技術なので、手段である。目的は、他人を変えることだ。
イノベーションは社会を変革するものですが、社会に受け入れられるにはまず、既存の価値観と整合性をとる必要があるのです。頭では分かる。
『イノベーションの神話』
けれど、自分が読みたいと感じるのは、読んで良かったと感じるのは、自分の知らないことだ。
読んだ本は読んでない本よりずっと価値が下がる。蔵書は、懐と住宅ローンの金利と不動産市況が許す限り、自分の知らないことを詰め込んでおくべきだ。(中略)実際、ものを知れば知るほどよんでない本は増えていく。知っていることをいくらインプットしたって、考えが偏るばかりだと思っている。
『ブラック・スワン[上]』
また、血液型人間学を信じていれば、それに合致した行動だけが記憶に残り、それ以外の行動は忘れてしまうという確証バイアスもある。さらに言えば、分かりやすい文には他意を感じる。
『「心理テスト」はウソでした。』
有り体に言えば、プロパガンダではないかと疑ってしまう。
人々のしたがうべき価値の妥当性を、人々に受け入れさせる最も有効な方法は、人々または少なくともそのなかの最も善良なものが常に抱いていて、しかもこれまで適当に理解されず、また認められなかった価値と実質的に同じものであると説得することである。だから、自分の中には、分かりやすいものは間違っているというヒューリスティックさえ存在する。
『隷従への道―全体主義と自由』
正しいことが分かりやすければ、身の回りにもっと分かりやすくて正しいものがあるはずだ、と思う。
分かりやすいことと正しいことは、決定的に違う。
正しさとわかりやすさを取り違えてはいけない。多分、身の回りにあるのは、正しさとは関係なく分かりやすいものだろう。
『まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか
分かりにくいものは、受け入れられないからだ。
たとえば、エイモス・トバースキーとダニエル・カーネマンによれば、人びとは、自分に理解できない案は、そこに内在するリスクに関係なく「リスクが大きい」と判断し、理解できる案は、内在するリスクに関係なく「リスクが小さい」と判断する傾向があるという。無理に両立させようとすると、ますます分からなくなるらしい。
『イノベーションのジレンマ』
スタンフォード大学のジェームズ・マーチとロバート・サットンによれば、企業パフォーマンスに関する調査には二つのタイプがあり、それぞれまったく性格の異なる世界に属しているという。一つは行動しようとする経営者向けのもので、どうしたら業績を向上させられるかと悩む者に報いてくれる。人々を励まし、やる気にさせるのを目的とする調査だ。もう一つは学術研究としての厳密さを重視し、それに答えてくれる。科学を最高のものとし、ストーリーは二の次、三の次だ。マーチとサットンはこう説明する。「二つはしばしば対立しあう要求であり、調査者は両方を満たそうとして、集めたデータから企業パフォーマンスの要因は推定できないとしつつ、推定しようとする」。こうして調査は「コンサルタントと教師および調査者の役割が分離した多重人格的な超大作」になるのである。二つの世界は異なる論理で動いており、ルールも違えば対象としている読者が求めていることも違い、交わることはほとんどない。本書は、ストーリー=分かりやすさに特化しているけれど、逆の方法、つまりサイエンス=正しさに特化する方法もあるんじゃないだろうか。
『なぜビジネス書は間違うのか ハロー効果という妄想』
「ほんとうに正直なサイエンティストは『本物(実験データ自体)』をポンと提示して沈黙しているヤツなんじゃないのかなぁ。語りだしたら、言葉にはウソが必ず混ざってしまうのかもしれない」嘘を混ぜて分かってもらうよりも、本物を示して分かって貰えない方が、潔いのでは?
と考がえることもあります。「本物(実験データ自体)」と「説明(伝えること)」は本来は別のものだと思うわけです。
『ゆらぐ脳』
と言うのも、嘘はしつこい。
嘘は強い。ひとたび成功した嘘、多くの支持者を獲得した嘘は、真実が暴露されたぐらいで揺らぐものではない。何年、何十年もはびこり続けるのです。しつこい上に、周囲の認識はそれでも変わる。
『神は沈黙せず』
認識を変えるのに、正しさは必ずしも必要ではない。
「どんな人間であっても、その人の評判を落とすのは簡単なんです。根拠があろうとなかろうと、悪い評判をひたすら繰り返せばよいのです。ですから、この種の攻撃は大きなダメージにつながることがあります。たとえ事実でなくとも、詳しい事情を知らないテレビの視聴者や新聞の読者は信じてしまいますからね。攻撃への対応策は綿密に練る必要がありました」多くのメッセージは、もはや、何を受け入れて貰いたいのか、見失っているように見える。
『戦争広告代理店』
何を受け入れて貰ったのかさえも、関心事ではないようだ。
メッセージが分かりやすければ、問題の正しさは二の次、三の次。
「正しい疑問に対する近似的な解を持つ方が、間違った疑問に対する正確な解を持つよりましである」これが良心だと思う。
『統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀』