『ファンタジア』を読んだ。
本書には、こんな一文がある。
ただ、自分の場合、何かに直接触れる機会よりも、編集されたもの (映像、写真、漫画、文書) に触れる機会の方が多い。
絵を描く時も、写真を見て描くことが少なくない。
その時、自分は「なぜ見えているように見えるのか?」を理解しようとすることがある。
写真には、何らかの(作為/無作為)の理由があるからだ。
問いを抱いて写真を眺めると、編集で見えなくなった部分が浮かび上がってくる。
それを足し戻し、全体像を想像してみると、編集対象はもちろん、それと編集者との関係が見えてくる。
その見えない部分に、編集者の考えが見え、さらに面白いことに、時折考えなしの行動も垣間見える。
ここまで見えると、理解した気になれる。
本書には、こんな一文がある。
レオナルドは眼に見えるものを絵に描くだけにとどまらず、なぜこの物体がこのかたちをしているのかを理解しようとした。確かに描くことは理解しようとすることだと思う。
ただ、自分の場合、何かに直接触れる機会よりも、編集されたもの (映像、写真、漫画、文書) に触れる機会の方が多い。
絵を描く時も、写真を見て描くことが少なくない。
その時、自分は「なぜ見えているように見えるのか?」を理解しようとすることがある。
写真には、何らかの(作為/無作為)の理由があるからだ。
問いを抱いて写真を眺めると、編集で見えなくなった部分が浮かび上がってくる。
それを足し戻し、全体像を想像してみると、編集対象はもちろん、それと編集者との関係が見えてくる。
その見えない部分に、編集者の考えが見え、さらに面白いことに、時折考えなしの行動も垣間見える。
ここまで見えると、理解した気になれる。