『デザインのたくらみ』を読んだ。
デザインとアートの境界はどこだろうか、と考えた。
自分はデザインは機能的であって欲しいと思う。
しかし、本書の著者はこう言う。
詳しく知らないが、倉俣史郎の椅子には、機能を全く提供しない――つまり、座れないものもあるらしい。
自分は、最早それは椅子ではないのではないか、と思う。
では何か? と問われれば、原寸大のフィギュアだと答えるだろう。
食品サンプルのようなものだ。
見た目も大きさもそのままだけれど、そもそもの機能(食べる・座る)は提供しない。
と言うのも、著者は、その椅子を、
だとしたら、少なくとも自分にとって、座れない椅子はデザインされたプロダクトではない。
アートだ。
目で愛でるものはアート、使えてこそのプロダクト。自分はそう認識している。
このギャップは、恐らく「デザイン」という言葉の曖昧さが生んでいる。
この言葉から自分は「設計」に近いニュアンスを感じるけれど、筆者は「意匠」に近いニュアンスで使っている。
意匠は排除されるべきだ、というミニマリストではないけれど、機能はあってしかるべきだと思う。
デザインとアートの境界はどこだろうか、と考えた。
自分はデザインは機能的であって欲しいと思う。
しかし、本書の著者はこう言う。
「機能から考え出されたデザインは美しい」とよく言われるが、僕は賛成しかねる。その例として、倉俣史郎の椅子を挙げている。
詳しく知らないが、倉俣史郎の椅子には、機能を全く提供しない――つまり、座れないものもあるらしい。
自分は、最早それは椅子ではないのではないか、と思う。
では何か? と問われれば、原寸大のフィギュアだと答えるだろう。
食品サンプルのようなものだ。
見た目も大きさもそのままだけれど、そもそもの機能(食べる・座る)は提供しない。
と言うのも、著者は、その椅子を、
空間の美を際立たせる「花」としてのイスと表現しているからだ。
だとしたら、少なくとも自分にとって、座れない椅子はデザインされたプロダクトではない。
アートだ。
目で愛でるものはアート、使えてこそのプロダクト。自分はそう認識している。
このギャップは、恐らく「デザイン」という言葉の曖昧さが生んでいる。
この言葉から自分は「設計」に近いニュアンスを感じるけれど、筆者は「意匠」に近いニュアンスで使っている。
意匠は排除されるべきだ、というミニマリストではないけれど、機能はあってしかるべきだと思う。