スキップしてメイン コンテンツに移動

扇動多くして - プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争

『プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争』を読んだ。

本書に掲載されているポスターは135枚。すべて長野県阿智村でみつかったもの。当時の会地(おうち)村長が、焼却処分せずに保管していたそうだ。制作時期は、1937年の日中戦争から1945年の終戦までの約8年間とされている[1]。

全体的にアール・デコ調に感じられる作品が多い。当時の最新のスタイルを取り入れた結果か。イラスト中心なのは、当時の写真は発色が悪くインパクトで劣ったためだと説明されている。手早く制作できるので積極的に採用していたロシア構成主義とは対極的に映る。

これらのポスターを見ていると、オリンピックに向けた、2つの動きを思い出す。まず、ボランティアの募集。スポーツ庁・文科省が連盟で大学長・高専校長へ「スケジュール考慮しろよ」と通知を出すに至っている[2]。人に加えて、金属の提供依頼。「都市鉱山からつくる!みんなのメダルプロジェクト」と称して集めようとしている[3]。なりふり構っていない。あるいは、何をしても許されると思っている。そんな印象。子供に協力させて、子供でさえ協力しているんだから大人は判るよね? という手法まで使い始めたら行くところまで行った感を覚えると思う。歴史から学ぶのか、歴史を繰り返すのか。

歴史と言えば、「コラム2 プロパガンダ・ポスターと美術界―画家と図案家―」で、最近『日本のグラフィック100年』で知った杉浦非水の名前が出てきた。同僚の作品を紹介する文脈で名前が挙がったに過ぎないけれど。同時期に読んだ『20世紀のデザイン』にはプロパガンダ・ポスターも載っていたけれど、『日本のグラフィック100年』にはなかったように記憶している。年代順に並んでいなかったため、気にならなかったけれど、この戦時の作品がぽっかり抜け落ちていたりするのだろうか(「焼却処分せよ」と命令が下ったので、残存数は少ないという事情はあるだろうけれど)。だとしたら『ゲンロン 6』、『〃 7』で議論されていた埋葬の失敗の、ひとつの表れか。開き直りもせず、露悪敵にもならず、静かに振り返ることの、この難しさ(確かめもせず考え過ぎか)。

このブログの人気の投稿

北へ - ゴールデンカムイ 16

『ゴールデンカムイ 15』、『〃 16』を読んだ。16巻を読み始めてから、15巻を買ったものの読んでいなかったことに気がつく。Kindle版の予約注文ではままあること。 15巻は「スチェンカ・ナ・スチェンク」、「バーニャ(ロシア式蒸し風呂)」と男臭いことこのうえなし。軽くWebで調べてみたところ、スチェンカ・ナ・スチェンク (Стенка на стенку) はロシアの祭事マースレニツァで行われる行事のようだ[1]。それなりになじみ深いものらしく、この行事をタイトルに据えたフォークメタルStenka Na StenkuのMVが見つかった。 16巻では杉元一行は巡業中のサーカスに参加することになる。杉元と鯉登の維持の張り合いが、見ていて微笑ましい。鯉登は目的を見失っているようだが、杉元もスチェンカで我を失っていたので、どっこいどっこいか。なお、サーカス/大道芸を通じた日露のつながりは、実際にもこのような形だったようだ[2]。 個々のエピソードから視線を上げて、全体の構図を眺めてみると、各勢力がすっかり入り乱れている。アシㇼパは尾形、キロランケ、白石とともにアチャの足跡を辿り、そのあとを鶴見のもとで家永の治療を受けた杉元が鯉登、月島を追っている。今更だけれど、杉元やアシㇼパは、第七師団と完全に利害が衝突していると考えていないはずだった。一方で、土方一味も入墨人皮を継続。むしろ彼らの方が第七師団との対立が深刻だろう。さらに北上するキロランケはまた別の目的で動いているようだけれど、なんで尾形も一緒なんだっけ? 『進撃の巨人』に引き続き、これもそろそろ読み返す時期か。 [1] 5つの暴力的な伝統:スラヴ戦士のようにマースレニツァを祝おう - ロシア・ビヨンド [2] ボリショイサーカスの源流は、ロシアに渡った幕末日本の大道芸人たちにあった 脈々と息づく「クールジャパン」 | ハフポスト

戦う泡沫 - 終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか? #06, #07

『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06, #07を読んだ。 『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06と#07を読んだ。#06でフェオドールの物語がひとまずは決着して、#07から第二部開始といったところ。 これまでの彼の戦いが通過点のように見えてしまったのがちょっと悲しい。もしも#07がシリーズ3作目の#01になっていたら、もう少し違って見えたかもしれない。物語の外にある枠組みが与える影響は、決して小さくない。 一方で純粋に物語に抱く感情なんてあるんだろうか? とも思う。浮かび上がる感情には周辺情報が引き起こす雑念が内包されていて、やがて損なわれてしまうことになっているのかもしれない。黄金妖精 (レプラカーン) の人格が前世のそれに侵食されていくように。

リアル・シリアル・ソシアル - アイム・ノット・シリアルキラー

『アイム・ノット・シリアルキラー』(原題 "I Am Not a Serial Killer")を見た。 いい意味で期待を裏切ってくれて、悪くなかった。最初はちょっと反応に困るったけれど、それも含めて嫌いじゃない。傑作・良作の類いではないだろうけれど、主人公ジョンに味がある。 この期待の裏切り方に腹を立てる人もいるだろう。でも、万人受けするつもりがない作品が出てくるのって、豊かでいいよね(受け付けないときは本当に受け付けないけれど)。何が出てくるかわからない楽しみがある。