『暇と退屈の倫理学』を読んだ(既に 増補改訂版 が出ているけれど、読んだのは元の版)。やっぱりときどき退屈しよう、と改めて思った。もともとそんなに嫌いじゃない。 この本の「結論」にある次を恃みに、この本を読んだ後、上の思いを抱くに至った過程を書いてみる。 同じことを同じように説明しても、だれもが同じことを同じように理解するわけではない。 論述の過程を一緒に辿ることで主体が変化していく、そうした過程こそが重要であるのだから。 まず、〈退屈〉の説明の前提に使う〈本来性なき疎外〉という考え方について簡単に。この本にも書かれているとおり、〈本来性〉は暴力的だ。他者に〈本来性〉を備えていないと認識されると迫害や憐憫の対象にされるし、自分がそう認識すると自己嫌悪や劣等感に苛まれたりする。 この〈本来性〉と〈疎外〉は、退屈と深く関係している。〈本来性〉と関係ないことは、〈本来性〉に囚われている人を退屈させる。反対に自分の方が〈本来性〉と関係ない(=〈疎外〉されている)と、何となく退屈する。すべきことがあるのにできないときの退屈と、何をすべきか分からないけれど何かすべきことがあるはずと思っているときの退屈だと思う。 退屈には、この2種類の他に、「すべきことをしているはずなのに退屈」がある。これは〈本来性〉に囚われきっていないからこそ感じる退屈。簡単に言うと、心のどこかで他のことをすべきなんじゃないかと思っているときの退屈だと思う。〈本来性なき疎外〉の一例にあたるんじゃないだろうか。 この3種類の退屈は、連続していると思う。気分の問題だから簡単に移ろうだろう。移ろっているのが安全な状態と言える。特に最後の退屈を感じないということは、〈本来性〉に囚われきっている状態だから、自分にも他人にも危険だ。 というわけで、退屈から抜け出したいという欲求ならともかく、退屈自体の忌避という欲求には従わないようにしたい。 こんなところに辿り着いたのは、もともと、退屈をそんなに嫌っていなかったからか。何をするでもなく一人でいるのは、そんなに嫌いじゃない――むしろときどきはそうしたい(あるいはこれは定義の問題か。端からは一人で退屈しているように見えるだけで、自分は退屈していないのだから)。 以下は関連書籍の覚え書き。 『孤独の価値』 『〈リア充〉幻想』 『ひ