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力の振るい方

言葉の力 - 「作家の視点」で国をつくる (中公新書ラクレ)『言葉の力』を読んだ。

本書を構成しているのは次の三部。
  1. 「言語技術」とは何か?
  2. 霞が関文学、永田町文学を解体せよ
  3. 未来型読書論
ポイントは第一部と第三部。「言語技術」を身につけよう、そのために本を読もう。一言でまとめるとこう言っている。ここでいう「言語技術」は、ロジカル・シンキング/ライティングなどのスキルを指していると思う。俳句・短歌も話題に出てくるので、教養も含めたもっと抽象的な概念なんだろうけれど、要はルール・型があるという話なので、自分を含め多くの人にとって、ロジカル・シンキング/ライティングと考えて実用上問題ないと思う。

言語技術を身につけようという主張には賛成。ただ、本書には、その一部であろうロジカル・ライティングのルール・型から、大きく外れている箇所がある。だから、説得力がない。ロジカル・ライティングで書かれた文章は、一つの主張とそれを支える根拠で構成されている必要があるのに、メイントピックの一つである「本を読めば言語技術が身につく」という主張が、そうなっていない。

本を読めば言語技術が身につくという主張には同意できない。理由は2つ。まず、読めなくても身につく。『プルーストとイカ』(感想) を読むと、ディスレクシア(難読症)でも明晰な言葉を持っている人がいることが分かる。それから、反対に、読んでも身につかない。自分は年に数十冊の本を読んでいるけれど、それではロジカル・ライティングが身につかなかった。

ロジカル・ライティングを身につけるには、そのルール・型を知る必要がある。著者もそう思っているから、「すべての新規採用職員に言語力研修を」という章をを設けているのだろう。自分が少しは身についたと思えたキッカケも、研修だった。その研修でも言われた通り、いくら、本を読んでも、ただ文を追っているだけでは、ルール・型は分からない。文と文、段落と段落、章と章が作る構造を捉えようとする必要がある。

本によっては読めば身につくかもしれないけれど、その本は著者が勧める『源氏物語』や大宅壮一、三島由紀夫、太宰治の作品ではないと思う。いくら何でも、夏目漱石の『こころ』を「作家に家長の意識がない」と批判した後に、『源氏物語』はないと思う。家長の意識と言語技術の関係がよく分からないし、関係があったとしても平安時代の女性・紫式部には家長の意識はなかっただろう。

身につけたければ、いわゆるビジネス書・ハウツー本の方が向いていると思う。本書でもない。本書は、何度もルール・型を破っている。しかし、Amazon.co.jpで高評価をつけている人のレビューを読むと、動機付けとしての効果はありそう。ただ、本書がそのルール・型から逸脱しているので、手本にするとかえって悪い癖がつきそうなので、余計なお世話だろうけれど不安になる。

きっと、「言語技術」という言葉に詰め込みすぎだと思う。「人間力」みたい。単体では何のことなのかよく分からなくなってしまって、読んでいても力を感じられない。

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