『零崎曲識の人間人間』を読んだ。
本作は、『零崎軋識の人間ノック』(感想)に続く人間シリーズの3冊目。
零崎曲識に対してこんな台詞が放たれる。
自分が断続的に考えているストーリィとロジックの対立に関する問題に対するアプローチになる気がする。
「相反するふたつを、同じくらいの練度で会得しているだなんて……百メートル走とフルマラソンを、両方極めているようなものじゃない……」
百メートルとフルマラソンは使う筋肉が異なるから、両方を極めるのは生物的に難しいと思う。
一方、思考ならそういう制限がない。
両方極めればいいのか、そういうことか。
データに基づいてロジックで推論される結論を、エモーショナルなストーリィに仕立てればいいのか。
こう書きながら難しいだろうな、と思っている自分がいる。
思考を何かが制限しているのだろうな、と思う。
本作は、『零崎軋識の人間ノック』(感想)に続く人間シリーズの3冊目。
零崎曲識に対してこんな台詞が放たれる。
自分が断続的に考えているストーリィとロジックの対立に関する問題に対するアプローチになる気がする。
「相反するふたつを、同じくらいの練度で会得しているだなんて……百メートル走とフルマラソンを、両方極めているようなものじゃない……」
百メートルとフルマラソンは使う筋肉が異なるから、両方を極めるのは生物的に難しいと思う。
一方、思考ならそういう制限がない。
両方極めればいいのか、そういうことか。
データに基づいてロジックで推論される結論を、エモーショナルなストーリィに仕立てればいいのか。
こう書きながら難しいだろうな、と思っている自分がいる。
思考を何かが制限しているのだろうな、と思う。