スキップしてメイン コンテンツに移動

本物よりも本物らしく

『偽物語(下)』を読んだ。

本書は、『化物語(上・下)』、『傷物語』に続く『偽物語』の下巻。
収録されているのは「最終話つきひフェニックス」だけれど、このあと『傾物語(第閑話まよいキョンシー)』、それから『猫物語(第禁話つばさファミリー)』と続くらしい。

ところで、本書を読んで、哲学者ジャック・デリダを思い出した。
「偽物」と「本物」との関係は、「脱構築」の対象になりそう。
「エクリチュール(書き言葉)」と「パロール(話し言葉)」の関係に似ている。
あるいは、「本物」は「偽物」の「本物」たらんとする運動に見られる「差延」のようにも思う。

「偽物」は「本物」がなければ発生しないのに、「本物」がなくなった後も存在し続ける。
「本物」のいなくなった「偽物」は一体「何者」か?

それどころか、「本物」のいない「偽物」もあると思う。
ホリの「絶対言わないこと」のモノマネは何に似ているのか?

「本館」のない「別館」は最早「本館」か?

このブログの人気の投稿

北へ - ゴールデンカムイ 16

『ゴールデンカムイ 15』、『〃 16』を読んだ。16巻を読み始めてから、15巻を買ったものの読んでいなかったことに気がつく。Kindle版の予約注文ではままあること。 15巻は「スチェンカ・ナ・スチェンク」、「バーニャ(ロシア式蒸し風呂)」と男臭いことこのうえなし。軽くWebで調べてみたところ、スチェンカ・ナ・スチェンク (Стенка на стенку) はロシアの祭事マースレニツァで行われる行事のようだ[1]。それなりになじみ深いものらしく、この行事をタイトルに据えたフォークメタルStenka Na StenkuのMVが見つかった。 16巻では杉元一行は巡業中のサーカスに参加することになる。杉元と鯉登の維持の張り合いが、見ていて微笑ましい。鯉登は目的を見失っているようだが、杉元もスチェンカで我を失っていたので、どっこいどっこいか。なお、サーカス/大道芸を通じた日露のつながりは、実際にもこのような形だったようだ[2]。 個々のエピソードから視線を上げて、全体の構図を眺めてみると、各勢力がすっかり入り乱れている。アシㇼパは尾形、キロランケ、白石とともにアチャの足跡を辿り、そのあとを鶴見のもとで家永の治療を受けた杉元が鯉登、月島を追っている。今更だけれど、杉元やアシㇼパは、第七師団と完全に利害が衝突していると考えていないはずだった。一方で、土方一味も入墨人皮を継続。むしろ彼らの方が第七師団との対立が深刻だろう。さらに北上するキロランケはまた別の目的で動いているようだけれど、なんで尾形も一緒なんだっけ? 『進撃の巨人』に引き続き、これもそろそろ読み返す時期か。 [1] 5つの暴力的な伝統:スラヴ戦士のようにマースレニツァを祝おう - ロシア・ビヨンド [2] ボリショイサーカスの源流は、ロシアに渡った幕末日本の大道芸人たちにあった 脈々と息づく「クールジャパン」 | ハフポスト

戦う泡沫 - 終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか? #06, #07

『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06, #07を読んだ。 『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06と#07を読んだ。#06でフェオドールの物語がひとまずは決着して、#07から第二部開始といったところ。 これまでの彼の戦いが通過点のように見えてしまったのがちょっと悲しい。もしも#07がシリーズ3作目の#01になっていたら、もう少し違って見えたかもしれない。物語の外にある枠組みが与える影響は、決して小さくない。 一方で純粋に物語に抱く感情なんてあるんだろうか? とも思う。浮かび上がる感情には周辺情報が引き起こす雑念が内包されていて、やがて損なわれてしまうことになっているのかもしれない。黄金妖精 (レプラカーン) の人格が前世のそれに侵食されていくように。

リアル・シリアル・ソシアル - アイム・ノット・シリアルキラー

『アイム・ノット・シリアルキラー』(原題 "I Am Not a Serial Killer")を見た。 いい意味で期待を裏切ってくれて、悪くなかった。最初はちょっと反応に困るったけれど、それも含めて嫌いじゃない。傑作・良作の類いではないだろうけれど、主人公ジョンに味がある。 この期待の裏切り方に腹を立てる人もいるだろう。でも、万人受けするつもりがない作品が出てくるのって、豊かでいいよね(受け付けないときは本当に受け付けないけれど)。何が出てくるかわからない楽しみがある。