『日本の弓術』を読んだ。
本書は次の三部から構成されている。
まず、著者オイゲン・ヘリゲルの講演原稿の訳『日本の弓術』から始まる。
ここでは、ドイツ人哲学者が、弓術家阿波研造に師事した5年間で、どんな体験をし何を会得したかを描いている。
次にそのヘリゲルの同僚で、阿波研造との間で通訳を務めた柴田治三郎の『ヘリゲル君と弓』を挟む。
ここでは、5年間の裏話のようなものが語られる。
最後に訳者柴田治三郎の後記で終わる。
旧版への後記と、新版への後記とがあるけれど、後者の方が面白い。
時間が経っているからか、冷静な見方が垣間見える。
弓術にも禅にも無知だと言い放ったり、本書を『弓と禅』の初稿だと言ったり、と明け透けだ。
主となる『日本の弓術』は全三章から構成されている。
一番面白いのは、『日本の弓術』の第二章。後記でもここが根幹だと言っていて、その通りだと思う。
第一章は導入だし、第三章は話を広げている割には公演だからか、どの話にも深入りしない。
代わりといっては何だけれど、第二章はとてもエキサイティング。
著者が、「弓を射ることには弓と矢をもって射ないことになり、射ないことは弓も矢もなしに射ることになる」と言うようになるまでに、どんなことがあったかが描かれている。
どれだけ言葉を尽くしても説明できない、言葉の先にある体験しないと会得できないようなものもあるんだろうなぁ、と何となく感じる。
本書は次の三部から構成されている。
まず、著者オイゲン・ヘリゲルの講演原稿の訳『日本の弓術』から始まる。
ここでは、ドイツ人哲学者が、弓術家阿波研造に師事した5年間で、どんな体験をし何を会得したかを描いている。
次にそのヘリゲルの同僚で、阿波研造との間で通訳を務めた柴田治三郎の『ヘリゲル君と弓』を挟む。
ここでは、5年間の裏話のようなものが語られる。
最後に訳者柴田治三郎の後記で終わる。
旧版への後記と、新版への後記とがあるけれど、後者の方が面白い。
時間が経っているからか、冷静な見方が垣間見える。
弓術にも禅にも無知だと言い放ったり、本書を『弓と禅』の初稿だと言ったり、と明け透けだ。
主となる『日本の弓術』は全三章から構成されている。
一番面白いのは、『日本の弓術』の第二章。後記でもここが根幹だと言っていて、その通りだと思う。
第一章は導入だし、第三章は話を広げている割には公演だからか、どの話にも深入りしない。
代わりといっては何だけれど、第二章はとてもエキサイティング。
著者が、「弓を射ることには弓と矢をもって射ないことになり、射ないことは弓も矢もなしに射ることになる」と言うようになるまでに、どんなことがあったかが描かれている。
どれだけ言葉を尽くしても説明できない、言葉の先にある体験しないと会得できないようなものもあるんだろうなぁ、と何となく感じる。