『ゆらぐ脳』を読んだ。
物語と事実との間に横たわる溝の深さを改めて思い知った。
まず、著者は物語の大切さをこう説く。
たとえば、『なぜビジネス書は間違うのか』の著者も、両者は全く異質であり、それを無理に一つの調査報告にまとめようとすると、「多重人格的な超大作」になると言っている。
この溝は、ロジカル・ライティング/シンキングに対して自分が持っている違和感にもつながる予感がする。
物語と事実との間に横たわる溝の深さを改めて思い知った。
まず、著者は物語の大切さをこう説く。
論文の展開は物語を作らなければなりません。しかし、同時にそれに対する違和感も示している。
物語の展開方法で同じ発見もインパクトがまるで異なるものになる。物語を語れなければ実験屋のまま。学会発表や論文の執筆でようやく科学者になれるのです。
「ほんとうに正直なサイエンティストは『本物(実験データ自体)』をポンと提示して沈黙しているヤツなんじゃないのかなぁ。語りだしたら、言葉にはウソが必ず混ざってしまうのかもしれない」全くその通りだと思う。
と考えがえることもあります。「本物(実験データ自体)」と「説明(伝えること)」は本来は別のものだと思うわけです。
たとえば、『なぜビジネス書は間違うのか』の著者も、両者は全く異質であり、それを無理に一つの調査報告にまとめようとすると、「多重人格的な超大作」になると言っている。
この溝は、ロジカル・ライティング/シンキングに対して自分が持っている違和感にもつながる予感がする。