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3月, 2009の投稿を表示しています

九尾

『九つの物語』 を読んだ。 天の邪鬼な自分は、サリンジャーをメジャー過ぎるという理由で避けていたのだけれど、 『スカイ・クロラ』 に引用されているということもあって、手に取ってみた(ただし、訳は引用されていたものとは異なる)。 本書は、タイトル通り九つの短篇からなる短篇集だ。 『バナナフィッシュに最適な日』、『エズメのために――愛と惨めさをこめて』、『テディー』の三篇が印象的だった。 特に『テディー』が良かった。 『星の王子さま』 に通じるものがあるように思う。 ところで、『九つの物語』を読み終えた今、改めて『スカイ・クロラ』で引用されていた部分を確認してみたら、嬉しくなってきた。 あるChapterの冒頭で引用された部分が示唆的と言うにはあまりにあからさまで、ずっと綺麗にだまされていたことが分かったからだ。

Nowhere, Now Here

『HELLSING 10』 を読んだ。 アワーズの連載を読んでいた人からしたら今更だろうけれど、遂に終わったのだなと感じた。 もっとアーカードが暴れてくれることを期待していたのだけれど、何はともあれ、完結したことが嬉しい。 そして、最後の最後にアーカードが変わったことが、嬉しい。 もう私はここにいる もう私はどこにもいないし どこにでもいれる だから ここにいる

Glue Guru

『理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性』 を、目分量で四分の三のところまで読んだ。 タイトルには『不可能性・不確定性・不完全性』と否定的な言葉が並んでいるけれど、内容からは逆に理性の可能性を感じる。 本書が取り上げている一つ一つのトピック――コペンハーゲン解釈、囚人のジレンマ、社会的意思決定の矛盾、クレタ人のパラドックス、不完全性定理など――は、目新しいものではない。 ただ、本書ではこれらのトピック間の関連を示している。この関連が新鮮だ。 今まで個別の知識としては持っていたこれらの内容が、こんな風につながっているとは思わなかった。そもそもつながっていると考えたことさえなかった。

本の選び方

Mirror House Annex: カポーティの輪郭 で書いたとおり、 『冷血』 を読んだ。 いまいち印象に残っていない。 義務感があったからか、読了が目的化してしいた気がする。 図書館への返却期限が迫っていたことも読了の目的化に一役買っていただろう。 本の内容とは別に、選び方によっても楽しめるかどうかが変わるみたい。

左右問題

小説の地の文に左右が書かれているとき、それは一体誰の視点から見たときの左右なのだろうか。 Mirror House Annex: 剣を舞わせる で書いたとおり、 『されど罪人は竜と踊る 5』 に収録されている『刃の宿業』を読み返して、そんなことを思った。 きっかけは、ギギナとテンゼンとの闘いの描写だ。 二人の動きをイメージしながら読んでいていたのだけれど、途中で動きが自然に繋がらなくなった。 読み間違えただろうか、と思い、違う解釈をしながら読み直しているうちに、冒頭で挙げた疑問に行き当たった。 小説に限らず、言語による左右の区別は、向かい合った相手がいる場面では、混乱の元だと思う。

落ちない鍵

公園でのランニングを終えたら、キーケースがなくなっていた。 アパートの鍵も入れていたので冷や汗をかいたけれど、幸いにして管理所で受け取ることができた。 親切な人が目立つ場所に置いてくれたらしく、公園の管理者が清掃をしている途中で回収していたとのこと。 走り始めた時には「重くて邪魔だな」と思ったことを覚えているから、走っている15分ほどの間に落としたようだ。 そんなことを思った割には、落としたことに気がつかなかったのだから、いい加減なものだ。 かと言って、気をつけているだけでは、落とさなくなるわけでも落としたら必ず気がつくわけでもない。 今日の場合、15分ほど走っている間に、何も考えていない時間が5分くらいはあったように思う。 キーケースを入れる場所を変えるなり、ストラップでつなぐなりの対策が必要だ。 落とし物の心配をしながらでは、走っていられない。

And Undo

Mirror House Annex: 決断が完成させる で書いた考えが揺さぶられている。 「完成させる」ということは、もう「変化させない」ということだ。 ピカソによると、それは一種の死を意味している。 「作品を仕上げる? なんて馬鹿げたことを! 一つのものを仕上げるということは、それを終えること、それを破壊すること、それからその魂を奪い去るということ、闘牛場の牛みたいに、それに″とどめ″を刺すということだ」 ただ、アナログ作品への変化が不可逆なのに対して、デジタル作品への変化は可逆だ。 その差は大きいと思う。

配置の妙

彫刻の森美術館 に行ってきた。 美術館という名前ではあるけれど、多くの作品が公園のような広い敷地内に点在している。 自分が行った日はあいにくの空模様だったので叶わなかったけれど、芝生の上で作品を眺めながらピクニックだってできる。 写真は入場してすぐのところにある作品。 右上の像は高さ20mくらいの台座の上にある。 こんなに高い位置に作品を置けるのは、屋外展示ならではだと思う。 しかしながら、この配置は狙っているとしか思えない。 右上の男「目玉焼きはもらった!!」 左下の男「そうはさせるかっ!!」

4等分できるアルバム

Sugarcultのベストアルバム 『REWIND 2001-2008』 を聴いている。 このバンドは、BeatlesのA Hard Day's NightのカバーをCMで耳にして以来ずっと気になっていたのだけれど、当時はオリジナルアルバムに手を出す踏ん切りがつかなかった。 そのまますっかり忘れつつあったのだけれど、A Hard Day's Nightが収録されたベストアルバムが出たことを知り、ようやく手を出してみた。 実は、オリジナル曲にはそんなに期待していなかったのだけれど、それ以外の曲も思いの外素敵だ。 でも、気になったときにすぐオリジナルアルバムに手を出していれば、とは思わない。 今の自分にとって素敵なのであって、当時の自分が聴いても同じように気に入ったかどうかは分からない。 それはさておき、オリジナルアルバムにも興味が沸いてきたので、各曲の収録元について調べてみたら、面白いことが分かった。 収録曲は全部で16曲あるのだけれど、4曲ごとに規則的に音源が分かれている。 最初の4曲が1stアルバム、次の4曲が2ndアルバム、その次の4曲が3rdアルバム、最後の4曲がその他の音源だ(16曲目は新曲)。 この収録順を意識して聴くと、各アルバムの雰囲気や、時系列に沿った変遷の様子が推し量れて面白い。 一度通して聴いた現時点の印象だと、3rdアルバムの雰囲気が好きだ。

豊かさを感じる条件

『デザイナーの仕事』 を読んだ。 この本には、39人のデザイナーのインタビューが載っているのだけれど、 その中に無印良品の体にフィットするソファをデザインした人がいた。 写真を見たのはもちろん、柴田文江というお名前を聞いたのも初めてだけれど、そのソファを愛用しているというだけで、関心を覚える。 そのインタビュー記事中に、強い共感を覚えた言葉があった。 「コンビニで買える一般的な製品を美しくすることが、生活を豊かにすると考えています」 日用品を買う際に安くて質の悪いものを選ぶ生活は、たとえ節約したお金で特別な美しい製品を手に入れることができたとしても、豊かさを感じないと思う。 一方、一点豪華主義という価値観もある。 一点豪華主義は、自分の感覚とは対照的だ。 この価値観を好きになれないのは、豪華にする一点が他の物を犠牲の上に成り立っているからだと思う。 ただ、豪華にする一点を選べない自分の優柔不断さを、認めたくないだけなのかもしれない、とも思う。

後頭部にバーコード

『ヒットマン』 を観た。 お金をかけて撮影したB旧映画だと思う。 ストーリーはもちろんありきたりで、 映像が格好良ければ、それで良しとした印象。 自分としては、もう少しアクションが派手な方が好みだけれど、あまり深く考えずに楽しめたので、気にしないことにしようと思う。 しかし、一点だけ気にしないことに失敗したのが、ヒットマンらのスキンヘッドにバーコードという容姿。 特異過ぎやしないだろうか。いくらなんでも。

怖いのは技術ではない

『青い虚空』 を読んだ。 端的に言うと、ハッカーが警察と協力して、クラッカーを捕まえる話だ。 ハッカーやクラッカーというのは、どちらもコンピュータに関して高いスキルを持つ人物のことを指す。 ただ、スキルの用途が異なる。クラッカーは、他人のコンピュータの乗っ取りのような、悪意のある目的のためにそのスキルを揮う。 この小説が面白いのは、クラッキング手段の一つとして、社会工学(ソーシャル・エンジニアリング)にも焦点が当てられている点だ。 ソーシャル・エンジニアリングはコンピュータを使わないで、コンピュータの乗っ取りに必要な情報(ユーザ名、パスワード)を入手する方法を指す。 これには、難しい技術は必要ない。 例えば、その一手法であるショルダー・サーフィンは、正規ユーザがコンピュータにパスワードを入力する際に、肩越しにキーボードをのぞき込むだけだ。 こうした人間系の弱さは、どんなに技術が進歩しても、根本的には解決されないだろう。 むしろ、技術が進めば進むほど、人間系の弱さが、セキュリティの穴として際立つはずだ。 そうなれば、クラッカーはそこを狙う。

カポーティの輪郭

『カポーティ―人と文学』 を読んだ。 本書は、作家トルーマン・カポーティの生涯を俯瞰的に描いている。 以前、映画 『カポーティ』 も観たときは、背景知識がなかったせいか、さっぱり分からなかったカポーティの人となりが、多少なりとも分かったような気がする(多分、気がするだけだ)。 しかし、自分はカポーティの作品を読んだことはない。 結果的に他人から見たカポーティばかりを知ることになっている。 バランスが悪いので、カポーティの作品――映画『カポーティ』でその製作過程が描かれた『冷血』がいいだろうか――を読んでみよう、と思う。

正確さと有用さ

『ザ・チョイス―複雑さに惑わされるな!』 を読んだ。 著者ゴールドラット博士のこれまでの作品と比べると、ビジネス色が薄い。 対話形式で書かれているせいもあるだろうけれど、哲学の本――『ソフィーの世界』を思い出した。 きっと、本書から受け取ったのが、方法ではなく態度だったからだ。 さらに言えば、その態度は、問題を解決しない。むしろ増やす。 なぜなら、その態度は、問題解決ではなく問題発見に役に立つからだ。 素晴らしいのは、発見できる問題が、正しいことだ。 間違った問題をいくら解決しても、事態は良くならない。 統計学者テューキーの言葉を思い出す。 「正しい疑問に対する近似的な解を持つ方が、間違った疑問に対する正確な解を持つよりましである」

電車では聴けないアルバム "The Empyrean" - John Frusciante

John Fruscianteの 『The Empyrean』 を聴いている。 Johnのソロアルバムを聴くのは、初めて。これまでに聴いたことがあるのは、Johnがギタリストとして参加しているRed Hot Chili Peppersのアルバムだけだ。 最初にギタリストのアルバムという意識で店頭で視聴したときは、いまいち心が動かなかった。だけど、その意識を取り去って、John本人が勧めるように静かな暗い部屋で大音量で聴き直してみたら、印象が一気に変わった。これはギタリストではなくアーティストのアルバムだ。 自分が一番音楽を聴くとき――電車の中で本を読みながら聴くのには向かないけれど、ただ音楽を聴きたいときに聴くには、最適なアルバムだと思う。視聴したときに見切りをつけなくて良かった。

空が晴れた

『スカイ・クロラ』シリーズを違う視点で読み返した。 全体像が見えた気がする。 断片を再構成するために、ここ5日間で、『ナ・バ・テア』、『ダウン・ツ・ヘヴン』、『フラッタ・リンツ・ライフ』、『クレイドゥ・ザ・スカイ』、『スカイ・クロラ』の順に1日1冊のペースで読み返し、それから『スカイ・イクリプス』の最後3篇と解説を走査した。 細かい疑問は残っているけれど、大枠は外していないと思う。 改めて『スカイ・イクリプス』をゆっくり読もう。 追記:細かい疑問もなくなった。中枠を外していた。

指輪の交換ではない

『チェンジリング』を観た。 上映時間を確認したとき不安が過ぎったけれど、いざ映画が始まったら時間を忘れることができた。 綺麗な映画だったと思う。きっと無駄がなかったのだろう。 こういう映画を良いと思う回路が、自分にもあったのだな、と思う。

曲がった直線

ストレイテナーの7thアルバム 『Nexus』 を聴いている。 聴き始めた瞬間に、好きだな、と感じた。 ストレイテナーのアルバムは、3rdアルバム 『TITLE』 以来ずっとチェックしているけれど、第一印象が今までで最も良い。 思えば、ストレイテナーというバンドは、自分の中で不思議な位置にある。 もちろん、嫌いなわけではない。もしそうだったら、途中で聴かなくなっていただろう。 かと言って、アルバムを聴き込むほど好きでもない。 それなのに、『Title』の発売された2005年以来、4年に渡り新譜が出るたびに聴いている。 熱烈なファンでもないのによくずっと聴いているな、と自分を不思議に思う。 あるいは、熱がなかったから冷めなかったのかもしれない。 でも、こういうよく分からないものこそ長く付き合える気がする。 好きな理由が明らかだと、理由がなくなった瞬間に好きでなくなる。

折られた枝

公園でランニングをしていたら、梅の花が咲いているのが目に入った。 足を止めて、携帯電話のカメラで写真を撮る。 接写していると、遠くから眺めているだけでは分からない形が見えて面白い。 しかし、遠くからでは見えないのは、面白いものだけではない。 近づくと、例えば枝が折られた跡にも気がついてしまう。 自分一人ぐらい折っていっても問題ないだろう、と思い、実際に折っていく人がいるということ。 枝を折る人は、それを咎められた時、「じゃあ自分も折ればいいじゃないか」とは言えない。 みんながみんなそんなことをしたら、花がなくなってしまうからだ。 それは、きっと枝を折る人も望んでいない。