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「だから何?」「何も」

小林秀雄の恵み (新潮文庫)『小林秀雄の恵み』を読んだ。

橋本治が、小林秀雄が本居宣長の著書を読んで書いた『本居宣長』を読んで書いた作品。入れ子構造が面白い。

入れ子はもう一つ増やせる。自分は、橋爪治が小林秀雄が本居宣長の著書を読んで書いた『本居宣長』を読んで書いた『小林秀雄の恵み』を読んで、このエントリィを書いている。

入れ子構造は誰が何を読んで書いたかに留まらず、その内容にも見て取れる。橋本治は、小林秀雄は自身を本居宣長に投影していて、また自分自身を小林秀雄に投影しているかもしれない、と言っている。

その上で、こんな風に言う。
本居宣長にとって、学問というのは、まったく「彼自身のためだけにあるもの」である。
見も蓋もない。だとすれば、芋づる式に小林秀雄も橋本治もその作品は自分自身のためだけにあるということになってしまう。

でも、それがいいと思う。先日亡くなったSteve Jobsは、Apple IIの開発中「オレが見る」という理由で消費者は目にしないだろう部分の美しさにこだわったし、Microsoftはドッグフーディングと称して自分たちの製品を真っ先に自分たちで使っている。それから、デザイナーの川崎和夫も同じようなことを言っていたと記憶している。

だから、読者も自分のためだけに本書を読めば良いのだな、と思う。橋本治にとって小林秀雄が古典で『本居宣長』をそのように読んだように、(まだ存命だけれど)橋本治は自分にとって古典のような感覚で、本書を好きに読んだ。古典のような感覚って好きに読むためにあった方がいいと思う。作者から正解が提示されないと、安心して誤読できる。正解がないから、誤読という言い方もおかしな話だけれど。

ただ、上に挙げてきた人たちと自分には最大の違いがある。それは「自身のためだけにあるもの」が価値を認められ売れるかどうか。たとえば、このエントリィは自分のために書いているけれど、もちろん橋本治の評論のようにはマネタイズできない。

この違いを超えるための鍵は川崎和男の公式ブログの「わがまま」タグがついたエントリィから掬い取れそう。けれど、師である賀茂真淵に拒絶されても好きに歌を読み続けたという本居宣長のエピソードを知ると、そんなこと気にしないで好きでやっているのもいいな、と思う。

と言うよりも、ずっと思っていたし、今も思っている。そして実際そうしている。その結果が、このブログの800件以上のエントリィ。

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