『正義のアイデア』を読んだ。 答えがないことには耐えられない人は、二つの意味で読み進め辛いだろうな、と思った。まず、本書に答えがない。それから、答えはあったとしても役に立たない、とも言っている。 自分は活字中毒だから、テューキーの次の言葉が気に入っているくらいには、正確な答えに無頓着だったので、分からないことも多かったけれど楽しめた。 「正しい疑問に対する近似的な解を持つ方が、間違った疑問に対する正確な解を持つよりましである」 序文によると、本書の目的は「どうすれば我々は正義を促進し、不正義を抑えるという問いに答えることができるかを明らかにすること」だそうだ。実際、「どうすれば我々は正義を促進し、不正義を抑えるという問い」に対する答えは、示していない。 それから、関心は「不正義を抑える」ことにある。「正義とは何か?」は、問題にしていない。この問題意識は、『もうダマされないための「科学」講義』( 感想 ) の「科学と科学でないもの」とよく似ている。「科学と科学でないもの」は、「科学ではないもの」を明らかにしてその被害を抑えようという意図で書かれていたと記憶している。 さらに、本書は、答えがあったところで、目の前の問題に役に立つとは限らない、と主張している。それを、次の例を使って説明している。 もし我々がピカソとダリのどちらかを選ぼうとすると、この世で理想的な絵がモナリザだという診断(たとえそのような先験的診断が可能であるとしても)を行っても何の役にも立たない。 本書で言及されているから、改めて言うことでもないけれど、ウィトゲンシュタインの思想と関連している。下記を読み返したくなった。 「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」( 感想 ) 『ツチヤ教授の哲学講義』( 感想 ) じゃあ、ピカソとダリをどう選ぶのか、が気になるけれど、分からない部分が多かった、というのが正直な感想。キーワードは、「包括的結果」「ケイパビリティ」「開放的普偏性」「公共的推論」「複数性」のあたり。ある結果に至った過程も含めた「包括的結果」と、それがどれだけ個人の「ケイパビリティ」を向上させるか、が目安になるようだけれど、それは一次元的な尺度ではないというくらいは読み取れた。 特によく分からないのが、「公共的推論」。具体的にイメージできない。本書で言及されているハー