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正義の意義

『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。
「正義」という議論百出しそうなテーマなのに人気があると聞いて気になっていたところに、twitterで後押しするツイートがあったので、読むなら今だと思い手に取った。

確かに読むなら「今」だと思う。
「これから」なんて悠長なことを言っている余裕はない。
サブタイトルの「今を生き延びるための哲学」の方がしっくりくる。

著者によると、本書の目的は、読者にこう勧めることだそうだ。
正義に関する自分自身の見解を批判的に検討してはどうだろう――そして、自分が何を考え、またなぜそう考えるのかを見きわめてはどうだろうと。
第1章でこう勧めた後、次に示すようなトピックが続いていくけれど、これらは検討の素材だと思う。
ちなみ、これで「正義」に関する代表的な考え方が網羅されているわけではないようだ。
マイケル・サンデル - Wikipediaによると、「エミール・デュルケーム的な社会学的集合表象」などが抜けているとのこと。
  • 功利主義
  • リバタリアニズム
  • 市場原理主義
  • カント
  • ロールズ
  • 正義・権利と名誉・道徳
  • アリストテレス
  • 共通善
もちろん、著者の主張もある。
最後にコミュニタリアニズムが肯定的に紹介されている。
だから、読者が自分自身の見解を検討した結果、このような考え方になっていて欲しいという意図もあるかもしれない。
そう考えると、先に挙げた本書に書かれなかった「正義」がどんなものか気になってくる。

何を考えるかはさておき、「自分が何を考え、またなぜそう考えるのか」を時々振り返った方が良さそう。
結論は今までと変わらなくてもいい。

議論をしている人を観察していると、相手を言い負かすことが目的になっていて、持論の良さはおろか持論そのものを見失っているように見えることがある。
議論の当事者になったときは、自分もそうなっているかもしれない。当事者になると、冷静な観察が難しいから気がついていないだけだ。

持論として何かを考えているし、そう考えている理由、つまりその良さがあるはず。
それを意識できれば、落ち着いて議論できそう。
つまり、自分とは異なる意見が自分にとって良い意見か、考えられそう。

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