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「命令に従え」という命令

「言われなくてもやることを、わざわざやるように言う人はどういうつもりなんだろうな?、と考えてみた」

「そんなによく言われるんですか?」

「そんなには言われていないと思う。けれど、言われるとストレスなので、ストレス反応として考えてみた」

「考えたら、少しは解消されましたか?」

「少なからず。というわけで、考えてみた結果を少し聞いて欲しいんだけど」

「少しなら」

「じゃあ手短に。まず、言う人には2種類ある。1種類目は、言わないとやらないと思っている人」

「信用していない人ですね」

「こちらの方が対処が簡単。言われる前にやって見せれば良い。やらないと思っているから言うのであって、やるなら言わない」

「そうですね。で、もう1種類は? やると思っているけれど言う人ですか?」

「始めはそう考えたけれど、多分違う。もう1種類はどうでもいい人」

「どういうことですか?」

「要は、人を動かしていると錯覚したいんだと思う。言うなれば、権力志向。この場合、言っても言わなくてもやるなら、言っておけば、言った通りになったと思えるし、やらないなかったら、『何で言ったのにやらないんだ』とやるまで言い続けられる。だから、やるかやらないかに関心がない」

「面倒臭いですね」

「うん、面倒臭い。『服従の心理』に書いてあった命令文に含まれる二重の命令を実感した。つまり、指示通りやれという文字通りの命令と、指示者の言うことを聞けというその裏にある命令」

「別に言うことを聞かなきゃいけないってことはないんじゃないですか?」

「それはそう。特に、指示者に権力はないから言うことを聞かなくても、デメリットは少ない。でも、多分言う方もそれを無意識に分かっていて、聞かざるを得ない当たり前のようなことしか言わない」

「七面倒くさいですね」

「七面倒と七面鳥って似てるよね。
それはさておき、結果として言われなくてもやることしか言われないから、余計にストレスになる。得るものがない。
というわけで、人と発言内容を切り離すことにした。『自分探しと楽しさについて』がヒントになった」

「言っていること自体は真っ当ですからね」

「でも、空しいよなぁ。本人の説得力は実はどんどん低下していっている」

「皮肉なものですね」

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