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かく語りき

『本から引き出された本』を読んだ。
本書は書評家が多数の本を紹介している本。

紹介している本は多岐に渡る。
シェークスピアや紫式部の古典から、ニーチェやフーコーの哲学、コナン・ドイルやG・K・チェスタトンのミステリィまである。
渡り過ぎて、未邦訳の本が多いのが惜しい。

これを機会にニーチェを読んでみようと思う。
14の気になった文章のうち、ニーチェだけが3回出てきた。
もちろん他は1回だけ。

もっとも印象に残った一文は、次の一文。
周囲から賞賛されているうちは、真に独自の道を歩んでいるのではなく、他人の道にのっているだけだと心しておくといい。
つい先日読んだ、『自分探しと楽しさについて』(感想)とも通じる部分があるように思う。

自分らしく独自であれば、他人から賞賛されるという認識は、多くのケースで思い違いだと思う。
控えめに言って、多分騙されていると思う。

さて、何から読み始めるのが良いだろうか。
まずは何も考えず本人が著した本から読むのが趣味なので『ツァラトゥストラはこう言った』でも読んでみようか。

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