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いるけれどいない先生

『先生はえらい』を読んだ。

中高生向けの新書「ちくまプリマ-新書」の一冊だけれど、書いてあることは一筋縄ではいかない。

というのも、本書は「どんな先生がえらいのか」に一切触れていない。
それでいて、タイトルは偽りではない。

では、なぜ「先生はえらい」のか。
理由は簡単だ。
「先生」を「自分がえらいと思う人」に再定義しているからだ。

自分の理解では、本書が言っている先生は、迷った時に、「きっとあの人ならこうするだろう」と考えて行動を選択する時のその人のこと。
教員免許も医師免許も関係ない。用心棒でなくても良い。
言い換えると、ロールモデルのことだと思う。

そう考えると、面白いことに先生と話す必要はないと分かる。会う必要もない。
本なりテレビなりから、自分の中に人物像が出来上がっていればよい。
極論だけれど、実在する必要さえないと思う。
小説なりアニメなりから作り上げた人物像が先生であっても良いと思う。

だったら、良い先生がいないからと言って、嘆くことはない。
いなければ、作ればよい。

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