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6月, 2010の投稿を表示しています

*1

『烏有此譚』 を読んだ。 『Self-Reference ENGINE』 ( 感想 )が愉快だったので、同著者の他の作品を手に取った次第。 本作も愉快だった。 愉快だったけれど、愉快だったのが注だった、というのはどうなのだろう。 本文を食ってしまっていて、頭に残っているのはほとんど注だけだ。 紙面の下3分の1が注というレイアウトに、注の注に注がつく有様で、注を追っていくと本文を置き去りにしてしまう。 しかも、注は単行本化の際に追加され、連載時にはなかったという。 自分にとっては、このように主従が逆転しているというだけで面白い。 けれど、受け付けない人もいるだろうなぁ、と何となく思う。 このフェティッシュさ加減は、時雨沢恵一作品のあとがきを思い出す。 *1 さすがにタイトルにまで注はついていなかった。タイトルに関する注はあったけれど。

寝かそう

『7つの習慣』 を読んだ。 いわゆる自己啓発本のクラシック。 なのだけれど、いまいち吸収できなかった。 「原則って何?」という疑問が今も残っている。 他に残っているものと言えば、本書で原則より軽視されるスキルめいたものばかり。 きっとまだ必要ではないのだろう、と思う。 思えば手に取った主な動機は、クラシックだから押さえておかなくちゃ、という義務感の解消だった。 そのためには通読すれば事足りるけれど、本書は第一部で繰り返し読むよう提案している。 問題意識とも目的意識とも無縁なので、消化できなくて当然なのかもしれない。 Amazonのレビュアには、20代後半のときに読んでもピンと来なかったけれど、30代になって読み返したらバイブルとなったと言っている人もいる。 必要なときになれば、きっと思い出すだろう。 それまで寝かせておく。

しがみつかない、かみつかない、みつからない

『しがみつかない生き方』 を読んだ。 タイトルの「しがみつかない」を言い換えると、「こだわり過ぎない」や「視野を広くする」だと思う。 何かに強くこだわり、それが全てだと思ってしまうと、それを失ったときや手に入れられないと確信したときに、立ち直れなくなってしまう。 人によっては「それ」が人生の答えで、「それ」はきっとどこかにあるはずだ、という確信を持っているように見える人がいる。 多分、見つけない方が良いと思う。 見つけたと確信したら、きっとそれにこだわってしまう。 見つからないと心底納得した上で、「それ」とは何か?を悩み続ける姿勢が健全な状態だと思う。 どことなく 『自由をつくる自在に生きる』 ( 感想 )を思い出した。

大復活

"Recovery / Eminem" を聴いている。 本作は、7枚目のスタジオアルバム。 当初は "Relapse" の続編"Relapse 2"が出ると公表していたのだけれど、製作している内に方向性が変わって本作の発売となったとのこと。 変わって良かったと思う。 "Relapse"よりずっと良い。 プロデューサが多いからか、曲にバラエティがある。 叩きつけるようなラップも、力の抜けた声も聴ける。 しかし、まさか歌うとは。 おかげでだれることが少ない。 しばらくヘヴィ・ローテーションすると思う。

文章、音声、映像

「友人と携帯メールを遣り取りしていて思ったんだけどさ」 「何を思ったんですか?」 「文字によるコミュニケーションに限界を感じる」 「何を遣り取りしていると、携帯メールでそんな結論に達するんですか」 「メールって結構誤解のもとだと思わない?」 「携帯なんだから、電話すればいいじゃないですか。 ついでに言えば、ブログじゃなくて、ネットラジオでもUstreamでもすればいいじゃないですか」 「そうなんだよねぇ。何が文字に拘泥させているんだろう?」

自己参照原動機

『Self-Reference ENGINE』 を読んだ。 緻密なのか勢いだけなのか測りきれないところが、面白い。 舞上王太郎や清涼院流水と同じ雰囲気を感じる。 ところで、本書を読んでいて、ジャック・デリダの<差延>や<散種>を思い出した。 次の一文に、Différanceの言葉が出てくることから、知っていてそう書いているのだろうな、と思う。 最初期に設計された計算機、Difference Engine や Analytical Engine、そしてDifférance Engineの遙かな後継だ。 Différanceは、日本語では<差延>と訳されている。 自分の理解では、物事を区別するための差異は、差異を認識する以前には認識され得ないが、認識される以前の差異はどうやって現われているのか? を考えるために導入された造語。 もう一度読み返したくなってきた。

触感の書簡

『ラギッド・ガール』 を読んだ。 本書は 『グラン・ヴァカンス』 ( 感想 )から始まる廃園の天使シリーズの第2弾。 『グラン・ヴァカンス』では物足りなかった部分が描かれていて、嬉しくなった。 その部分とは、『グラン・ヴァカンス』の舞台である<数値海岸(コスタ・デル・ヌメロ)>や、そこにゲストが来なくなった<大断絶(グランド・ダウン)>の理由などの、要は設定部分。 自分は、設定好きなんだなぁ、と改めて実感する。 次の巻はいつ出るんだろうか。 著者は遅筆らしいので、気長に待とう。

幻獣の自由

『幻獣坐』 を読んだ。 主人公の思惑通り進み過ぎて、ちょっと現実味が薄く感じた。 続きが出て、そこで誰かか何かに翻弄されたりするのだろうか。 そんな伏線が張られているように読めるところもあったので、続きが出たら読むと思う。 追記: 続きを読んだ感想は、 幻獣の選択

幻書の原書

『ダンタリアンの書架5』 を読んだ。 1~4巻と同じ短篇に断片(ショートショート)を挟む形式。 短篇『航海日誌』が面白かった。 4巻を読んだ時に「もう少しダイナミックな動きが欲しい」という感想を持ったけれど、5巻でもまだ大きな動きはない。 ついに三人目の読み姫も表に出てきたけれど、まだ顔見せ程度。 ここまで来るとこれはこれでという気もしてきた。 さて、このあとどうなっていくんだろうか。

スーツケースがスーツ

"Iron Man 2"( オフィシャルサイト )を観てきた。 あっと言う間に敵も味方もパワーアップしていく様から、『レンズマン』を連想した。 技術的に無理だろうと思うことも多々あるけれど、エンターテインメントなので気にしない。 スピード感重視で良いと思う。 トニー・スターク、良いキャラだなぁ。

シリーズ5冊目の3巻

『境界線上のホライゾン3〈上〉』 を読んだ。 登場人物が沢山出てきたけれど、六護式フランスのルイ・エクシヴが濃過ぎて、他の印象を圧倒していまっている。 さすが太陽王。 武蔵の中にも新しい事実が発覚した人物がいたり、盛り上がりには事欠かない。 来月の<3 中>が楽しみ。 一瞬森三中を思い出したがもう忘れた。

夏休みは終わらない

『グラン・ヴァカンス―廃園の天使1』 を読んだ。 物語としては面白い。 SFにジャンルされているけれど、自分としてはダークファンタジーらしく感じた。 綺麗過ぎる。あとがきによると、綺麗なものを描こうとしているのだから、狙い通りなのだろう。 それが自分の感覚とはぴったりとは合っていないとういうだけなのだろう。 続く 『ラギッド・ガール 廃園の天使 2』 では、本作で残された謎が解決するらしい。 楽しみ。

どうとでも読める

『ラカンはこう読め!』 を読んだ。 『先生はえらい』 ( 感想 )にラカンが出てきたのが、本書を手に取ったきっかけ。 ラカンに関する予備知識は、職業は精神科医で著作は難解らしいということくらいだったので、その難解らしい著作の読み方が書いてあるのかと思って本書を読んでみた。 入門書の割には、未定義のまま用語が導入されるため、ついていくのは難しい。 それでも、いくつか『先生はえらい』と繋がるところがあったので、面白かった。 例えば、途中に出てくる次の一文は、先生と弟子の関係に繋がっていく。 「分析家は私の症候の無意識的な意味をすでに知っている」と仮定したときにはじめて、患者はその意味に到達できる。 そして、超えていく。本書ではこの仮定した相手を〈知っていると想定される主体〉と呼んでいる。しかし、本書によるとそれは、〈信じていると想定される主体〉の例外に過ぎないという。 〈知っていると想定される主体〉というのは、副次的な現象であり、ひとつの例外に過ぎない。つまりそれは信じていると想定される主体という、より根本的な背景の前にあらわれるということである。 このとき、想定している主体と想定されている主体とは、どのようか関係にあるのだろうか。

我に返れば

『びっくり館の殺人』 を読んだ。 『Another』 ( 感想 )と同じ著者・綾辻行人の作品。 本書は、館シリーズに数えられるらしい。 その割にはあっさりしているけれど、本書がミステリーランド――かつて子どもだったあなたと少年少女のためのレーベルから出版されていることを考えると、これで良いのかもしれない。 でも子供向けとは思えないところがあって、何だかちぐはぐな印象。 まず、子供が買うには高いと思う。定価が2100円だけれど、これを買うならコミックス5冊買うだろう、自分なら。 それから、内容にも子供向けとは感じられない描写があった。ネタバレするといけないので、詳しくは書かない。 悪くはなかったけれど、変化球がボールに外れた感じ。 「びっくり」ってそういうこと?

いるけれどいない先生

『先生はえらい』 を読んだ。 中高生向けの新書「ちくまプリマ-新書」の一冊だけれど、書いてあることは一筋縄ではいかない。 というのも、本書は「どんな先生がえらいのか」に一切触れていない。 それでいて、タイトルは偽りではない。 では、なぜ「先生はえらい」のか。 理由は簡単だ。 「先生」を「自分がえらいと思う人」に再定義しているからだ。 自分の理解では、本書が言っている先生は、迷った時に、「きっとあの人ならこうするだろう」と考えて行動を選択する時のその人のこと。 教員免許も医師免許も関係ない。用心棒でなくても良い。 言い換えると、ロールモデルのことだと思う。 そう考えると、面白いことに先生と話す必要はないと分かる。会う必要もない。 本なりテレビなりから、自分の中に人物像が出来上がっていればよい。 極論だけれど、実在する必要さえないと思う。 小説なりアニメなりから作り上げた人物像が先生であっても良いと思う。 だったら、良い先生がいないからと言って、嘆くことはない。 いなければ、作ればよい。

An Other

『Another』 を読んだ。 ページ数にして600ページ以上、厚さにして5cmと物理的な分量は多いけれど、心理的にはあっと言う間だった。 ページあたりの文字の密度が低かったのかもしれないけれど、かかった日数は二日間。 読みやすいのと先が気になるので、時間を見つけては読み進めてしまった。 グロテスクな描写もあるけれど、エンターテインメント性の高い作品だと思う。 物語の構造も綺麗だし、完成度も高いんじゃないだろうか。 主人公は中学生だし、ライトノベル(とう言うか高校生くらい向けの作品)としても成立しそう。