国立新美術館に行って、草間彌生の個展「わが永遠の魂」を観てきた。
入って2つ目の部屋が圧巻だった。大部屋の四方の壁が作品で敷き詰められている。中央にも立体の造形物が配置されている。もう、この部屋だけで情報量過多。黄緑色と橙色、水色と桃色、紫色と黒。目眩を催す色彩。
水玉がかわいい。そんな牧歌的な印象が雲散霧消した。この表現の起点は、もっとずっと強迫観念めいているに違いない(違ったとしても一度そう感じてしまったことは否定できないので、その印象に基づいて思いを巡らせてみる)。
水玉はソフィストケイトされてパターンに見える。無限の〈網〉と形容されている作品群もある。けれど、「水玉」は「目玉」であり、「無限の網」は「無限の網〈目〉」じゃないんだろうか。
一度そう考えてしまうと、無数の目がシマウマのシマに見えてくる。一見、派手に見えるのだけれど、世界が目玉で埋め尽くされてるなら、自らを目玉で覆えばカムフラージュとして機能する。これらの作品群は隠れるための逃避なのかもしれない。
でも、それにしては目力に満ち満ちている。あるいは、視線を跳ね返すための反撃なのかもしれない。
そんな益体もないことを考える。