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Quantative and Qualitative - 社会調査法入門

社会調査法入門 (有斐閣ブックス)『社会調査法入門』のI部「社会調査の方法について考える」と、II部「調査データから何がわかるか」の第14章「質的な研究とはどういうものか」を読んだ。

I部は第1~9章で、第1~3章には「社会調査の意義・目的・手順の基本的な考え方」、第4~8章には「調査の企画からデータファイル作成までの狭義の社会調査法」について書かれている。II部の第14章に書かれているのは「質的な研究の方法」。残りの章は「調査データの基本的な統計分析の方法」について。

調査のイロハについてしっかり学んでいないことが気になっていた上に、統計に偏り過ぎているという自覚症状を感じ始めたので、基礎的な概論について読んだ上で質的研究に目を向けてみようと思った次第。先日読んだ、『組織パターン』が質的研究の成果だったのも影響していると思う。

I部第1~3章で印象的だったのは、意義があれば個別事例の調査でも価値があること。
「代表性ではなく適切さ」
「重要なのは事例の意義ではなくて,研究の意義だ」
統計的研究に重心があると、調査と聞くとデータセットを作ることだと思ってしまうけれど、違う世界があることが分かってよかった。

第I部第4~8章は、調査プロセスの話。これまでの自分のプロセスの反省点は、プリ・テストやコードブックの作成が端折られがちだった点。やっぱり基本に則ってきっちりやるべきだ、と改めて確信した。何度端折って後悔したことか。

II部第14章は、ちょっと食い足りなかった。さすがにI部での記載よりは詳細だったけれど、質的研究についてカバーするのに1章分の紙幅では明らかに足りていない。「文献紹介」に、
最もいい勉強法は優れた質的な建久を読むことだろう
とあるので、こういう視点で『組織パターン』を読み返してみようかな。

読んだ範囲で振り返ると、本書は統計的研究も質的研究もカバーしていて、いずれにも好意的だったのが印象的だった。大事なのは、調査手段ではなくて、研究の目的や成果。頭ではそう分かっていても、つい道具を使う楽しさに耽ってしまう。だから、たまにこうして基本に立ち戻ると、背筋が伸びる思いがする。
「研究者はみずからの探求がめざしていることが同時にほかの人々にとっても探求する意義のあることになっているだろうかということを、常にみずからに問いかけ続けるべき」

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