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『近代を彫刻/超克する』の感想

『近代を彫刻/超克ちょうこくする』を読みました。〈あいちトリエンナーレ〉で知った、小田原のどかさんの著書です。

〈あいちトリエンナーレ2019〉で作品と解説を見て/読んで以来、公道に存在する裸婦像を無視できなくなったのですが、同時に「なぜ公共性の場の萌えキャラには非難が集まることがあるのか?」を考えています。

最近だと温泉娘プロジェクトが比較的大きな(自分のタイムライン上で普段はこの手の話題に触れない人が触れる程度には)話題になりました。このような批判は今に始まったことではなく2014年には碧志摩メグが三重県伊勢市から公認を取り消されています。美少女VTuberが登場する千葉県警の交通ルール啓発動画にも非難が集まり、美少女VTuber「表現の自由」論争過熱 - ITmedia NEWSで取り上げられました。

一方で裸婦像にここまでの非難が集まったという話題は私の目に入ってきません。理由として、ありふれているがゆえのニュース性のなさが挙げられるとは思いますが、そもそもなぜ裸婦像が公共の場にありふれたのか? という疑問が残ります。

西洋美術史においては「裸」は「ヌード」と「ネイキッド」に大別され前者に芸術性を認めてきたようです。また、このうえで裸婦像は公共空間ではなく美術館などの屋内に展示されているとのこと。

美術史家ケネス・クラークは『ザ・ヌード』において、プラトンを起点に「裸」はnaked(はだか)とnude(裸体像)に大別されると述べた。古来、「理想的身体」は西洋美術史の主題とされてきた。「裸」はいかにして見られ、描かれるに足る対象となったのか。nudeとして「再構成された肉体のイメージ」は性的関心を含む「当惑」を誘引しないといクラークは言う。

しかしこの価値観は日本には定着していないようです。彫刻制作の場に身を置いている著者はこう述べています。

高校から彫刻制作を学び始めたわたしの実感とともに断言してしまいたい。この国において彫刻を学ぶことは、裸の女の像をうまくつくる技術を習得することに等しいと言っても過言ではない側面がある。そこでは、西洋における文脈や図像学的な解釈を学ぶことは留め置かれ、形態を模倣し再現することが重んじらられる。

この部分を読んで私が思い出したのは本屋のキャラクターイラスト関連コーナーでした。そこでは、決して小さくない割合が女の子をかわいく描くための技術本に占められています(女の子をかわいく描きたいと思っていて本棚を見ていたのでそういう本ばかり目に映るのかもしれませんが)。特に裸をうまく描く技術に特化したものだと、『mignonがしっかり教える「肌塗り」の秘訣 おなかに見惚れる作画流儀』がフェチズムを感じさせるタイトルで印象的です。

一方、観る側の立場から思い返してみても、高校までの美術の授業において解釈を学んだ記憶はありません。見たまま感じたままの感想を述べるように言われて、そういう見方があったことさえ教わった記憶がありません(教わったのに忘れてしまったのかもしれませんが)。

西洋美術史的な解釈が広まればいいのか? というと、そうではないと著者は述べています。ここでいう「ウルストンクラフトの彫像」の彫像とは、《メドゥーサとペルセウスの首》を指します。この話題は著者による女性裸体像はいつまで裸であらねばならないのか? | Relations (リレーションズ)批評とメディアの実践のプロジェクトにも詳しいのでこちらをお勧めします(本書にはない図・写真もあります)。
しかしウルストンクラフトの彫像を巡って起きた「当惑」は、西洋美術史という「正統」を揺るがしている。自由に言えばよいのだ。「美術史的背景・文脈など知るか」と。「裸」を自らに取り戻すこと。それは半知性主義でもヴァンダリズムでもない。男根主義への異議申し立てという歴史観の更新と被抑圧者の声の可視化であり、祝福されるべきことである。
この方向性が一つの筋道のように感じます。「彫刻」は表現の直接性と持続性の高さから広範かつ慎重な議論が必要に思えますが、萌えキャラ採用・パブリックアート設置や屋外広告出稿まで含めて、その地域の特色、住む人・訪れる人、表現の抑圧/暴力性の由来も含めて情報のやり取りが発生していって欲しいと感じる日々です。

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