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4月, 2019の投稿を表示しています

遅ればせながら - キャプテン・マーベル

キャプテン・マーベルを見てきた。よくまとめられたな、これ。そう思わせる情報量だった。 MCU全体の中では、S.H.I.E.L.D結成前を描く前日譚に位置する。そのため眼帯をする前のフューリーや若きコールソンも登場する。アベンジャーズ3部作に対してインフィニティー・ウォーのポストクレジット映像を受けてエンド・ゲームで登場する必然性=フューリーとの縁を描く挿話にあたる。 MCUにおける女性ヒーローの代表格なので、社会的には女性のエンパワーメントの課題を描いてもいるし、マーベルコミック隆盛の立役者であり、マーベル者の顔であり、MCU通じてのカメオでもある、スタン・リーの遺作もである。本作での彼の映像の扱いがまた泣かせてくれる。 これだけつらつらと挙げたうえで、鑑賞後まっさきに思い浮かんだのが「ミズ・マーベル強い!」なのだけれど。 だってほらこのあとエンドゲームに出るわけでしょ? あのサノスを相手どるわけでしょ? インフィニティ・ウォーでのラストで突き落とされた絶望から再起するための一筋の光として見てしまうわけで。 というわけで、明日はエンドゲームを見てきます。見ないという選択肢には目もくれていないのだけれど、期待だけでなく不安も小さくなくて、持て余す日々に蹴りをつけたいと思い始めるくらいに待ち過ぎた。

ずっとおもしろい - 錆喰いビスコ 1, 2, 3

『錆喰いビスコ』の既刊3冊を読み終えた。愉快痛快熱い熱いアクションエンタメ。1巻からスケールを加速度的に上昇させながらも、しんみりするところではしんみりさせてくれる。特にミロの振る舞いに滂沱してしまった。というかボタボタ垂れるほど泣いてしまった。 そのままの勢いで3巻まで貫き通してくれるので、これから読むという人は安心してビスコに振り回されて欲しい。矢のように時間が過ぎていく。2巻以降はさすがに心の準備ができるようになったらしく、さっき書いたほど泣きはしなかったけれど、とんでもないところにまで連れていかれてしまった。 ビスコとミロ。2人の少年らはもちろん、彼らの周りの人々もとても魅力的。ビスコの育ての親であり師匠でもあるジャビとその相棒(ビスコの相棒でもある)アクタガワのコンビがたまらなく好き。飄々とした老爺がときにその身で身軽に、ときに巨大ガニの背に立ちながら、弓を引き矢を射るわけで、かっこよくないわけがない。 巻を追うにつれアクタガワがどんどんかわいく見えてくる、史上最高にカニが素敵な小説でもあるのでカニ好きにもおすすめ。

字と地 - 文字渦

字と地を巡る壮大な法螺話だった。 ふりがなで目一杯に遊んだ「誤字」と、{空白、一、口、門、日、問、閂、間}でXOR演算をする「天書」がお気に入り。註遊びがなかったのは『烏有此譚』で済んでいるからか。 特にふりがなに関しては、再び可能性を開いてくれたと思う。最近よく目にするのだとFateシリーズの宝具名。日本語で意味を表して読みが技の名前というのは、少年漫画では珍しくない。 技の名前に限らず、「本気と書いてマジと読む」とか「宇宙」を「そら」と読ませるとか、本文とふりがなの差を、そうすることでしか現れ得なかった意味として読み解こうとすることができたりして想像が膨らむ。 あるいは、仲間内だけで通じる言い回しをさせつつ、それを読者にも通じるようにするのにふりがなが使われているのを見たことがある。この場合だと仲間に入れてもらえたような親近感が出てくる。 今でこそ文字・読み・意味が三項組で扱われているけれど、昔は同じ読みなら異なる漢字を当てたりおおらかというかいい加減だったし、同フォントでも等幅でもなく感情が書き方と一体になっていたり(フォントでもサイズが変えられたりすることあるけれど)、したのだよなあ。 もちろん、今のように辞書=メタデータが整備されている方が、時間の変化に耐えられるだろう。でも、趣味の領域ではもっと儚い、小説的でタイポグラフィー的で書的なものがあってもよいか。もっと自由でよいか。なんて思う。 あるいはそれは中〜長篇の手書きの詩なのかもしれないのだけれど。

面と箱 - ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代

国立西洋美術館に行って『ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代』を見てきた。 会場となる建物を設計したのもル・コルビュジエなので、作品の中に作品が展示されている入れ子構造がおもしろい。解説からではなかなかイメージできない、そこに立ったときのことの印象を得られるのも大きい。特徴については美術館が公開している 美術館の建物 が入手容易でわかりやすいと思う。 『コルビュジエさんのつくりたかった美術館』 も平易な絵本。しかし意外と濃くて、もしコルビュジエが今の国立西洋美術館を見たらどう思うことだろう? という批判的な視点もあったりする。 展示品の多くを占めていたのは、建物ではなく絵画に関する作品だった。サブタイトルの「ピュリスム」という言葉も、彼が画家オザンファンと興した芸術運動の呼び名。キュビスムを超えることが意図されていて、キュビスムでは感覚的に配置されている複数の視点からの像が、ピュリスムでは幾何学的に構成されている。コンセプトを共有しているだけに、差異が目立っていたように思う。ル・コルビュジエが俯瞰なのに対してオザンファンが水平だったのが、対照実験のようだった。 最後に展示されていたサヴォワ邸の模型を見て、前半に展示されていた「最初の絵」――『暖炉』の上の立方体を思い出させる。丘とサヴォワ邸のようでもあり、サヴォワ邸の屋上庭園と出入口部分ようでもある。 前後の作品や設計思想をもう少し知りたかったので 『再発見 ル・コルビュジエの絵画と建築』 も読んでみた。31歳のときに片目の視力を失っていたことと、建築は中を歩き回って様々な視点から味わうものだと言っていたことの関係が示唆されたところで、天井の低さを思い出す。自分は少し圧迫感を感じたのだけれど、片目だと遠近感が失われるので感じなかったかもしれない。 行ったのは、かれこれ一月ほども前( 3/23 )だけれど、5/19まで開催されているので興味があるのならぜひ。

堂に入る - 大聖堂の殺人 ~The Books~

『大聖堂の殺人 ~The Books~』を読んだ。これにて〈堂〉シリーズ完結。 只人の導き出した結論が描かれたので満足。探偵役として登場したと思ったら、自分が犯人だと証明しかけたり、あまつさえ宮司百合子と対立までして、シリーズを通してずっと気になるキャラクタだった。でも終わってみれば、まさに〈放浪の数学者〉だったようにも思う。 期待外れや相性の悪さを感じたことがも一回や二回ではなかったけれど、しっかりと結論まで書き切られたので今は充足した気持ち。