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妹とは一体 - 超妹大戦シスマゲドン1, 2

超妹大戦シスマゲドン (1) (ファミ通文庫)『超妹大戦シスマゲドン』を読んだ。

タイトル通り、妹キャラが沢山出てきて戦う話。非常にバカっぽく聞こえると思う。しかし、何かにつけて遙か彼方まで突き抜けていて、勢いがある。あり過ぎる。

108人の騎馬妹軍なんてまだ序の口で、メカ系だと可変航空妹や装甲妹(戦車)が、生物系だと怪獣と化す妹や名状し難い妹(いあいあ しすたー)まで出てくる始末。

ラスボスも当然妹である。それも古代から蘇りし地上最古の妹である。父と母と兄あるいは姉はどうなったのか、とか疑問に思ってはいけない。思うだけ無駄だからだ。そこまで読み進む間に〈妹〉がとっくにゲシュタルト崩壊している。

ところで、本作の1巻が出版されたのは2005年と10年近く前。著者が古橋秀之さんなので知っていたけれど、今になって読んだのは、『ウは宇宙ヤバいのウ!』を読んだのがきっかけ。当時はこういうバカSF的なノリに食指が動かなかったけれど、今読んでみたら全然いける口だとが分かった。

『ウは宇宙ヤバいのウ!』の〈妹の力〉や〈妹型宇宙生命体〉はこれに触発されたりしていて。

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