『ツチヤ教授の哲学講義』を読んだ。
2005年に出版された単行本の文庫版。
哲学は同じ問題を扱い続けているから、今読んでも面白い。
本書は、その問題を問題にしている。
つまり「それは問題ではない」というのが、自分が理解した本書の主張。
じゃあ何なのかと言うと、「言語的誤解」だと言う。
そして、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」につなげていく。
ウィトゲンシュタインについては全然知らないけれど、この考え方は有効だと思う。
以前から「自分らしさ」に関する議論に、不毛さを感じていたのだけれど、その理由を考えるとっかかりとして使えそう。
「自分とは何者か?」なんていかにも哲学的な問題だ。
でも単純に考えると「自分」とはそう問う「あなた」だ。他に誰もいない。
「あなた」じゃない「本当の自分」が他にいるとしたら「あなた」は何者なのか? 「偽者」か?
『人間の条件』や『〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み』に通じるものがある。
人間を定義しようとすると、それこそ聖人のようになるだろうし、それが人間(もしくは「あなた」)の真実の姿と思いたくなるかもしれないけれど、そんな人間はどこにもいないんじゃないだろうか。
2005年に出版された単行本の文庫版。
哲学は同じ問題を扱い続けているから、今読んでも面白い。
本書は、その問題を問題にしている。
つまり「それは問題ではない」というのが、自分が理解した本書の主張。
じゃあ何なのかと言うと、「言語的誤解」だと言う。
そして、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」につなげていく。
ウィトゲンシュタインについては全然知らないけれど、この考え方は有効だと思う。
以前から「自分らしさ」に関する議論に、不毛さを感じていたのだけれど、その理由を考えるとっかかりとして使えそう。
「自分とは何者か?」なんていかにも哲学的な問題だ。
でも単純に考えると「自分」とはそう問う「あなた」だ。他に誰もいない。
「あなた」じゃない「本当の自分」が他にいるとしたら「あなた」は何者なのか? 「偽者」か?
『人間の条件』や『〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み』に通じるものがある。
人間を定義しようとすると、それこそ聖人のようになるだろうし、それが人間(もしくは「あなた」)の真実の姿と思いたくなるかもしれないけれど、そんな人間はどこにもいないんじゃないだろうか。