Amazon.co.jpでは 『薔薇の名前』 には上下合わせて、39件もカスタマレビューがあるのに、 『「バラの名前」覚書』 には、ただの1件もない。 それはさておき。 『覚書』の訳者は、『薔薇の名前』を ひどい親本(邦訳『薔薇の名前』) とこき下ろしている。 確かに、『覚書』で ポストモダンの態度は、非常に教養のある女性を愛していて、彼女に向かって、「ぼくは狂ったように君が好きだ」(I love you madly)とは言えない――なにしろ、この文言はすでにバーバラ・カートランドによって書かれていることを彼女が知っていること(そして、彼本人が知っていると彼女が知っていること)を本人が知っているのである――そういう男性の態度のようなものなのだ。 とあるにも関わらず、各国の既訳はおろかエコ自身による『薔薇の名前』への言及を参照しなかった『薔薇の名前』訳者の態度は、(『薔薇の名前』の読者の多くは、原本および各国訳者によって書かれていることを知らないことを差し引いたとしても)ポストモダンではない(『薔薇の名前』訳者あとがき参照)。 一方で、(『「バラの名前」覚書』訳者あとがきによると、)エコは 作品は独自の生命を有しており、ひとたび作家の手を離れれば、もう作品は作家に対して一定の距離ができる と主張しているのだから、『薔薇の名前』訳者のような解釈があり、さらにそれを読んだ読者の解釈があっても、目くじらを立てるようなことでもないような気がする。 ところで、『「 薔薇 の名前」覚書』ではなく、『「 バラ の名前」覚書』としたのはなぜだろうか? 著者名の片仮名表記をエーコではなくエコとしたのはなぜだろうか? 『覚書』が出版されたのは1994だからSEOの概念はあったとしてもマイナだっただろうけれど、 こうした表記の揺れは、被検索性を低下させる。 Googleは割と吸収してくれるようだけれど。 (この間"β分布"を検索したら、"ベータ分布"がちゃんとひっかかった)。