スキップしてメイン コンテンツに移動

『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』感想

SF小説『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を読みました。事故で片足を失ったダンサーが、AI制御の義肢とともに新たな表現に挑戦する物語です。

著者はアニメ化された『BEATLESS』で知られる長谷敏司さん。Twitterアカウントでは、AIについての思索をよくツイートされています。2022年11月にChatGPTが一般公開されて以来、AIの可能性について多くの意見が見られるようになりましたが、SF小説家らしく冷静に自身や社会への影響を分析なさっていて、とても参考になります。

なお、本作が出版されたのは、ChatGPT一般公開のほんの1ヶ月前――2022年10月(あとがきによると、前身となった中篇はさらにその6年前――2016年に遡ります)。わずかなタイミングの違いで、AIの描かれ方が激変していたかもしれないと考えると、変化の速さを改めて実感します。

そう感じる一方で、私が本作から最も強く感じたのはAI技術の変遷で風化しない生きることと切っても切り離せない気持ちでした。それは「ままならなさ」です。本書はままならないことに溢れています。

事故に遭う可能性は、ゼロにはできません。事故後しばらくは動くことさえできません。リハビリでは自分の身体を思いどおりに動かせません。日常生活を送れるようになっても、AI制御の義足では事故以前の身体表現はできません。ダンサーとしての収入が失われたため、生活も苦しくなる一方です。そこに父母の自己、母との離別、父の介護というさらなる不幸が降りかかります。認知症を発症した父とのコミュニケーションはほとんど成立しません。同じダンサーとして父を尊敬している主人公と違い、もともと父と不仲だった兄は連絡を寄こしません。

正直に言って生々しく重々しいです。得意不得意でいえば不得意な物語です。

それにも関わらず一気に読み切ってしまいました。ダンスを選択し続ける主人公に美しさを見たからです。無数の「ままならなさ」を引き受けてなおダンスのための選択を続ける意思には、機能美が感じられます。「機能美」というと余分なものをそぎ落としたイメージを抱かれるかもしれませんが、現実には種々の制約が存在します。その範囲の中で隅々まで目的意識が行き渡っていて、かつ高いレベルで達成されているため、そぎ落とされたように見えているのではないでしょうか。

あれもこれも手を広げてばかりの自分とは(怠惰を差し引いて比べたとしても)対極にあります。どちらがよいかは問題にはしません(怠惰は問題視しているのですが、脱却がままなりません)。ただ、自分にはできないことをやる姿には憧憬するし、憧憬の対象なのだからそれは美しいものだと、自分の中で位置づけられるのです。

このブログの人気の投稿

北へ - ゴールデンカムイ 16

『ゴールデンカムイ 15』、『〃 16』を読んだ。16巻を読み始めてから、15巻を買ったものの読んでいなかったことに気がつく。Kindle版の予約注文ではままあること。 15巻は「スチェンカ・ナ・スチェンク」、「バーニャ(ロシア式蒸し風呂)」と男臭いことこのうえなし。軽くWebで調べてみたところ、スチェンカ・ナ・スチェンク (Стенка на стенку) はロシアの祭事マースレニツァで行われる行事のようだ[1]。それなりになじみ深いものらしく、この行事をタイトルに据えたフォークメタルStenka Na StenkuのMVが見つかった。 16巻では杉元一行は巡業中のサーカスに参加することになる。杉元と鯉登の維持の張り合いが、見ていて微笑ましい。鯉登は目的を見失っているようだが、杉元もスチェンカで我を失っていたので、どっこいどっこいか。なお、サーカス/大道芸を通じた日露のつながりは、実際にもこのような形だったようだ[2]。 個々のエピソードから視線を上げて、全体の構図を眺めてみると、各勢力がすっかり入り乱れている。アシㇼパは尾形、キロランケ、白石とともにアチャの足跡を辿り、そのあとを鶴見のもとで家永の治療を受けた杉元が鯉登、月島を追っている。今更だけれど、杉元やアシㇼパは、第七師団と完全に利害が衝突していると考えていないはずだった。一方で、土方一味も入墨人皮を継続。むしろ彼らの方が第七師団との対立が深刻だろう。さらに北上するキロランケはまた別の目的で動いているようだけれど、なんで尾形も一緒なんだっけ? 『進撃の巨人』に引き続き、これもそろそろ読み返す時期か。 [1] 5つの暴力的な伝統:スラヴ戦士のようにマースレニツァを祝おう - ロシア・ビヨンド [2] ボリショイサーカスの源流は、ロシアに渡った幕末日本の大道芸人たちにあった 脈々と息づく「クールジャパン」 | ハフポスト

戦う泡沫 - 終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか? #06, #07

『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06, #07を読んだ。 『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06と#07を読んだ。#06でフェオドールの物語がひとまずは決着して、#07から第二部開始といったところ。 これまでの彼の戦いが通過点のように見えてしまったのがちょっと悲しい。もしも#07がシリーズ3作目の#01になっていたら、もう少し違って見えたかもしれない。物語の外にある枠組みが与える影響は、決して小さくない。 一方で純粋に物語に抱く感情なんてあるんだろうか? とも思う。浮かび上がる感情には周辺情報が引き起こす雑念が内包されていて、やがて損なわれてしまうことになっているのかもしれない。黄金妖精 (レプラカーン) の人格が前世のそれに侵食されていくように。

リアル・シリアル・ソシアル - アイム・ノット・シリアルキラー

『アイム・ノット・シリアルキラー』(原題 "I Am Not a Serial Killer")を見た。 いい意味で期待を裏切ってくれて、悪くなかった。最初はちょっと反応に困るったけれど、それも含めて嫌いじゃない。傑作・良作の類いではないだろうけれど、主人公ジョンに味がある。 この期待の裏切り方に腹を立てる人もいるだろう。でも、万人受けするつもりがない作品が出てくるのって、豊かでいいよね(受け付けないときは本当に受け付けないけれど)。何が出てくるかわからない楽しみがある。