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『言語学講義――その起源と未来』の感想

『言語学講義――その起源と未来』を読みました 一見ランダムなやり方でとり上げることで、「言語学の今」を浮かび上がらせてみたいと考えている。 とあるけれど、言語学の予備知識がほぼゼロなのでその試みがうまくいっているかどうか、なんもわからん。 でも、楽しめました。例外は最後の第5章。著者の専門領域の話らしくさっぱり。ソシュールの『一般言語学講義』成立の経緯はおもしろかった。本人が書いたのではなく、生徒が講義を復元したらしい。あと、ジャック・デリダの『グラマトロジーについて』の中でのソシュールを批判したとあったところで、内容が気になったくらい。 以下、枝葉ばかりだけれど感想を。 「包括形」と「除外形」 2人称を含めるのが「包括形」。含めないのが「除外形」。日本語では区別なく「私たち」と表記される。「私たちは人間としてみな平等だ」というのは包括形で、「私たちは君たちを助けたい」は除外形。ここが気になったのは、ニコ生で「私たちはそう考えますが、みなさんはどうですか?」というような言葉を聞いたばかりだったので。おかげでこの言葉に違和感があった理由がわかった。ニコ生で「私たち」と言われたら、自分は包括形を想定するらしい。対称ではないけれどテレビより双方向性があるからだろう。 言葉の「正しさ」 国語教育の一部として指針が必要だとは思うけれど、想定する受け手に伝わればいいとも思っているので、外野から正誤を押しつけるのに意味はない。と頭では思うのだけれど、つい指摘したくなる気持ちが湧くこともある。そこで一拍おいて飲み込めるようにしたい。反射的に言ってしまうこともあるのだけれど、〈物語〉シリーズの阿良々暦が言っていたことを思い出す。言いたいことと言うべきことは違う、みたいな。思い出すというには曖昧過ぎるか。 [m], [n], [ŋ] 「ん」の話。[m], [n]の区別はつくけれど、[ŋ]はだいぶ怪しい。ま行の音が続くときの口を閉じる「ん」が[m]で、口を開けたまま言える「ん」が[n]。「感激」などが行に続くときの音、らしい。らしいというのも衰退していて、おそらく自分も普段使っていなくて自信が持てないから。どれくらい衰退しているかというと、1940年時点で都区部の15歳の学生を対象に調べたら、鼻濁音があったのは約半分だったらしい。東北方言だと「烏賊」は[iga

『言語の起源』の感想

『言語の起源』を読んだ。 原始的なコミュニケーションはイントネーションとジェスチャーを通して行われており、そこから構造化されていって言語が生まれたという話。言葉が通じない相手とコミュニケーションするために、イントネーション・ジェスチャー・絵、使えるものはなんだって使うだろうから、原始的なコミュニケーションには構造がなかったという主張には納得させられる。 もうひとつ繰り返される主張は、言語を使えるようなったのは、コミュニケーションできた方が生存に有利だったためそのように進化していったということ。突然変異で言語を扱えるようになったという仮説や脳に言語を司る部位があるという仮説に、しつこいくらい反論している。以前の自分はそういう仮説に惹かれていたかもしれないけれど、今の自分はこの主張に違和感を覚えないし、もっと言えば起源単体への関心が薄くなっていることを改めて実感。現在の言語がどう発展してきたのか、遡る方向の本も探して読んでみようかな。 ところで、個人的な関心は記号の進化過程にあったのだけれど、こちらはあまり掘り下げられていなかったのが残念。まずインデックス(物理的につながりのあるものを示す。例は足跡)、それからアイコン(物理的ににているものを示す。例は肖像画)、シンボル(ほとんど恣意的)と徐々に抽象化されたのではないか、というくらいの話はあった。いずれにせよ「起源」を考えると、声と身振りより先にあったとは思えないので、これは「言語」で真っ先に「書かれたもの」を思い浮かべた自分の方がズレていた。 メモ:チョムスキーの「生得文法」があり、その反証として著者の『ピダハン――「言語本能」を超える文化と世界観』があり、その延長として本書があるみたい。チョムスキー、計算機科学における形式文法の発案者として知ったのでそのイメージが抜けない。