『デリダとの対話』を読んだ。 『虎よ! 虎よ!』 を思い出した。 「おれは信ずる」彼は考えた。「おれは信仰をもっている」 彼はまたジョウントした。ふたたび混沌におちた。 「何に対する信仰なのか?」彼は地獄の辺土にただよいながら自問した。 「信仰への信仰だ」彼はかんがえた。「何か信ずるものをもつことは必要ではない。どこかに何か信ずるに値するものがあることを信ずることが必要なのだ」 彼は最後にジョウントした。信ずることへの意思の力が、無目的な目的地の近・現在を現実に変容した…… これってまさにこの本が説く脱構築じゃなかろうか。 というのも、この本では「脱構築は信仰に依拠している」といっている。でも、その信仰の対象は決して来ない「来たるべきもの」で、それは「絶対的に予見不可能」だとも言っている。 その「来たるべきモノ」を「正義」とか「贈与」とか「歓待」とか「民主主義」とか呼んでいるはいるけれど、それは「絶対的に予見不可能」なので再発明しなければならないと言っているので、辞書に載っているような意味でのそれではないんだろう、と思う。 これって、何を信じるでもなく信じるに値するものがあることを信じて、無目的(信じる対象が分からないまま)に目的地(信じる対象)を意志することのように思える。 具体的にどういうことなのかは分からないけれど、〈信じる対象〉という信者にとっての真理がある状態が諍いを生んでいるのは、しばしば観察されるので、〈真理が予見可能〉であるという命題は偽であって欲しいな、と思う。